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[[戒名]]は「光文院釋雨過居士」。[[デスマスク]](銅製)は[[本郷新]]により作成。死顔のスケッチも[[佐野繁次郎]]と[[岡本太郎]]により描かれた。[[1949年]](昭和24年)7月、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]の[[多磨霊園]]に墓が建てられた{{Sfn|福田|1967|p=109}}。墓碑の「横光利一之墓」は川端康成の筆である。 |
[[戒名]]は「光文院釋雨過居士」。[[デスマスク]](銅製)は[[本郷新]]により作成。死顔のスケッチも[[佐野繁次郎]]と[[岡本太郎]]により描かれた。[[1949年]](昭和24年)7月、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]の[[多磨霊園]]に墓が建てられた{{Sfn|福田|1967|p=109}}。墓碑の「横光利一之墓」は川端康成の筆である。 |
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== 死後 == |
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1948年1月、[[鎌倉文庫]]の『人間』に遺作である「[[微笑 (横光利一の小説)|微笑]]」が掲載される<ref>『人間』1948年1月号(鎌倉文庫)</ref><ref name=toeda/>。鎌倉文庫は1945年(昭和20年)5月に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[川端康成]]、[[高見順]]、[[久米正雄]]ら鎌倉在住の文士によって貸本屋として開店され、終戦後の9月に大同製紙の申し入れにより出版社となって出発し、『人間』が創刊された<ref name="nenpu">[[羽鳥徹哉]]「年譜」『作家の自伝15 川端康成』([[日本図書センター]]、1994年)</ref>。編集長は[[木村徳三]]で、作家の[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[野間宏]]、[[遠藤周作]]、[[堀田善衛]]らが寄稿し、有力な文芸雑誌となり、GHQ/SCAP[[民間情報教育局]]([[CIE]])の調査でも「代表的文芸誌」とされていた<ref name=toeda/>。創刊号の表紙は[[アダム]]と[[イヴ]]のような若い男女の姿が手を後ろに回して並び立つ姿であったが、GHQの担当女性将校は、これは敗戦国の日本人を表現するもので、日本人は囚われの身ではなく連合軍によって解放された[[人民]]でなければならないという理由で不適切との勧告を受けた{{Sfn|十重田|2010|p=330}}。 |
1948年1月、[[鎌倉文庫]]の『人間』に遺作である「[[微笑 (横光利一の小説)|微笑]]」が掲載される<ref>『人間』1948年1月号(鎌倉文庫)</ref><ref name=toeda/>。鎌倉文庫は1945年(昭和20年)5月に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[川端康成]]、[[高見順]]、[[久米正雄]]ら鎌倉在住の文士によって貸本屋として開店され、終戦後の9月に大同製紙の申し入れにより出版社となって出発し、『人間』が創刊された<ref name="nenpu">[[羽鳥徹哉]]「年譜」『作家の自伝15 川端康成』([[日本図書センター]]、1994年)</ref>。編集長は[[木村徳三]]で、作家の[[三島由紀夫]]、[[安部公房]]、[[野間宏]]、[[遠藤周作]]、[[堀田善衛]]らが寄稿し、有力な文芸雑誌となり、GHQ/SCAP[[民間情報教育局]]([[CIE]])の調査でも「代表的文芸誌」とされていた<ref name=toeda/>。創刊号の表紙は[[アダム]]と[[イヴ]]のような若い男女の姿が手を後ろに回して並び立つ姿であったが、GHQの担当女性将校は、これは敗戦国の日本人を表現するもので、日本人は囚われの身ではなく連合軍によって解放された[[人民]]でなければならないという理由で不適切との勧告を受けた{{Sfn|十重田|2010|p=330}}。 |
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1949年には「横光利一賞」が設定され、[[大岡昇平]]『[[俘虜記]]』が受賞した。しかし改造社社長山本実彦は公職追放を受け、経営も思わしくなく、1955年に雑誌『改造』は終刊した<ref name=toeda/>。 |
1949年には「横光利一賞」が設定され、[[大岡昇平]]『[[俘虜記]]』が受賞した。しかし改造社社長山本実彦は公職追放を受け、経営も思わしくなく、1955年に雑誌『改造』は終刊した<ref name=toeda/>。 |
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== 文学碑 == |
=== 文学碑 === |
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[[1959年]](昭和34年)12月15日、三重県阿山郡[[伊賀町]](旧・[[柘植町]])に記念碑がたてられ、横光が生前に最も好んでいた自筆の句が、[[川端康成]]によって選出され<ref name="shincho"/>、 |
[[1959年]](昭和34年)12月15日、三重県阿山郡[[伊賀町]](旧・[[柘植町]])に記念碑がたてられ、横光が生前に最も好んでいた自筆の句が、[[川端康成]]によって選出され<ref name="shincho"/>、 |
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横光の名を冠したものとして、父の故郷の大分県宇佐市でおこなわれる横光利一俳句大会がある。これは横光が自らを松尾芭蕉の末裔であるこという矜持があり<ref name=jigoku/>、また本人も数多くの句を作ったところよりきている。 |
横光の名を冠したものとして、父の故郷の大分県宇佐市でおこなわれる横光利一俳句大会がある。これは横光が自らを松尾芭蕉の末裔であるこという矜持があり<ref name=jigoku/>、また本人も数多くの句を作ったところよりきている。 |
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=== 記念館 === |
==== 記念館 ==== |
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[[三重県立上野高等学校]]に同窓会が横光利一記念館を設置。 |
[[三重県立上野高等学校]]に同窓会が横光利一記念館を設置。 |
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* 洋燈 - 『[[新潮]]』1948年(昭和23年)2月号(絶筆) |
* 洋燈 - 『[[新潮]]』1948年(昭和23年)2月号(絶筆) |
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== 詩歌 == |
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*雲 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
*雲 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
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*水車 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
*水車 - 『十月』1918年(大正7年)(横光左馬名義) |
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*浪々 - 『朗々』1919年(大正8年) |
*浪々 - 『朗々』1919年(大正8年) |
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== 戯曲 == |
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*愛の挨拶 - 『文藝春秋』1927年(昭和2年)6月号 |
*愛の挨拶 - 『文藝春秋』1927年(昭和2年)6月号 |
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*食はされたもの |
*食はされたもの |