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| name = 横光 |
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| image = Yokomitsu Riichi.JPG |
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平野幸仁は、[[幕末]]明治期の知識人は[[和魂洋才]]をとなえることで西欧文明に拮抗できるほど強固な、[[武士道]]倫理や[[漢籍]]的教養を持っていたため自己喪失の危機に陥ることなかったが、横光にはそれらが欠けていたため、日本の村落共同体的原理と原始的イデオロギーである古神道に退行し、また『旅愁』では前述の「みそぎ」のほか、[[幣帛]]の切り方と[[数学]]の[[集合論]]との類似性や、[[龍安寺]]の石庭が[[排中律]]と関係があるといった議論が小説では描かれており、西欧文化のなかでしか日本文化に意味を与えることができなかったとしている<ref name=hirano/>。神谷忠孝や河田和子は<ref>『戦時下の文学と日本的なもの』花書院 2009年</ref>、横光は「[[近代の超克|東洋精神による西洋精神の超克]]」を企てたとしている<ref name=hirano/>。 |
平野幸仁は、[[幕末]]明治期の知識人は[[和魂洋才]]をとなえることで西欧文明に拮抗できるほど強固な、[[武士道]]倫理や[[漢籍]]的教養を持っていたため自己喪失の危機に陥ることなかったが、横光にはそれらが欠けていたため、日本の村落共同体的原理と原始的イデオロギーである古神道に退行し、また『旅愁』では前述の「みそぎ」のほか、[[幣帛]]の切り方と[[数学]]の[[集合論]]との類似性や、[[龍安寺]]の石庭が[[排中律]]と関係があるといった議論が小説では描かれており、西欧文化のなかでしか日本文化に意味を与えることができなかったとしている<ref name=hirano/>。神谷忠孝や河田和子は<ref>『戦時下の文学と日本的なもの』花書院 2009年</ref>、横光は「[[近代の超克|東洋精神による西洋精神の超克]]」を企てたとしている<ref name=hirano/>。 |
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田口律男は、横光の「日本的原理」は[[保田與重郎]]や[[京都学派]]の「世界史の哲学」とは異なるものであったが、保田與重郎は一顧だにしなかっただろうし、また京都学派の哲学者にとっては全く問題にならない杜撰な論理と思っただろうと推理し、横光が追求した「日本的原理」の構築の作業は失敗しつづけたとしている<ref name=taguchi/>。 |
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三島由紀夫は、横光利一の文学と川端康成の文学の分かれ目を考察し、横光と川端は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「[[天性]]」を持った作家であったが<ref name="riichi">「横光利一と川端康成」(『文章講座6』河出書房、1955年2月)。{{Harvnb|三島28巻|2003|pp=416-426}}に所収</ref>、横光は、その天性の「[[感受性]]」をいつからか「[[理知|知的]]」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「[[地獄]]」「知的迷妄」へと沈み込んでいき、自己の本来の才能や[[気質]]を見誤ってしまったとしている<ref name="tabibito">「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=204-217}}に所収</ref><ref name="seiyo">「川端康成の東洋と西洋」(國文學 解釈と鑑賞 1957年2月号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=485-490}}に所収</ref>。一方それに対し川端文学は、寸前でその「地獄」から身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している<ref name="tabibito"/><ref name="seiyo"/>。また、三島は横光の方法について川端とは逆に、「徹底的に愚直な方法でやった」とし、「あんな誠実な人はいないな。横光さんという人は好きです。ほんとに誠実だ。あの人は自分のエロティシズムの効用に全く無知だった」「あんなにすべてに無意識だった人はいない」としている<ref name="ningen">三島由紀夫と中村光夫の対談「対談・人間と文学――川端文学の『処女』」(講談社、1968年4月)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=63-65}}</ref>。 |
三島由紀夫は、横光利一の文学と川端康成の文学の分かれ目を考察し、横光と川端は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「[[天性]]」を持った作家であったが<ref name="riichi">「横光利一と川端康成」(『文章講座6』河出書房、1955年2月)。{{Harvnb|三島28巻|2003|pp=416-426}}に所収</ref>、横光は、その天性の「[[感受性]]」をいつからか「[[理知|知的]]」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「[[地獄]]」「知的迷妄」へと沈み込んでいき、自己の本来の才能や[[気質]]を見誤ってしまったとしている<ref name="tabibito">「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=204-217}}に所収</ref><ref name="seiyo">「川端康成の東洋と西洋」(國文學 解釈と鑑賞 1957年2月号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=485-490}}に所収</ref>。一方それに対し川端文学は、寸前でその「地獄」から身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している<ref name="tabibito"/><ref name="seiyo"/>。また、三島は横光の方法について川端とは逆に、「徹底的に愚直な方法でやった」とし、「あんな誠実な人はいないな。横光さんという人は好きです。ほんとに誠実だ。あの人は自分のエロティシズムの効用に全く無知だった」「あんなにすべてに無意識だった人はいない」としている<ref name="ningen">三島由紀夫と中村光夫の対談「対談・人間と文学――川端文学の『処女』」(講談社、1968年4月)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=63-65}}</ref>。 |