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横光利一

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横光利一よこみつ りいち1898年(明治31年)3月17日-1947年(昭和22年)12月30日)は川端康成と共に新感覚派として活躍した日本の作家俳人。本名は利一(としかず)。福島県会津郡出身。

横光利一の名を冠したものとして父の故郷である大分県宇佐市でおこなわれる横光利一俳句大会があるが、これは横光が松尾芭蕉の家系を引くことや、また本人も数多くの句を作ったところよりきている。

略歴

1898年3月17日、福島県北会津郡東山温泉で生まれる。母が俳人松尾芭蕉の家系を引く。1910年三重県立上野中学校(現三重県立上野高等学校)入学。このころから志賀直哉に影響を受ける。1914年早稲田大学英文科に入学するも文学に傾倒し除籍。再び政治経済学科に入学するも中退する。

1921年頃から菊池寛の師事を仰ぎ、また川端康成と出会い以後生涯の友となる。処女作「御身」を書くがこの時には発表せずにいる。1923年、菊池寛の推挙により同人誌文藝春秋』同人となる。同5月、同誌にて「蝿」を『新小説』に「日輪」を発表する。同9月に関東大震災があったためにこの時期に出た作家は震後作家としてもてはやされた。同人仲間小島勗(つとむ)の妹君子と結婚する。

1924年、「御身」と「日輪」を刊行。川端康成とともに、今東光、中河与一、稲垣足穂ら新進作家を糾合して「文藝時代」を創刊する。プロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点となり、横光自身新感覚派の天才と呼ばれるようになる。1926年、妻君子を結核によって喪う。このころの二人のことは「春は馬車に乗って」「花園の思想」などに書かれている。翌年、日向千代と再婚。

芥川龍之介の最後の時期に「君は上海に行くべきだ」と言われ、1928年に約1ヶ月上海に滞在する。これにより「上海」を執筆し始める。大正末期から昭和初期のこの頃、芥川をはじめ、吉行エイスケ、村松梢風、金子光晴などが上海を訪れている。また内山完造の開いていた内山書店には魯迅をはじめ、中国や日本の文学者が多く集まっていた。

1930年、町工場の人間模様を実験的な手法で描いた「機械」を発表する。1932年、新感覚派の集大成というべき「上海」と「寝園」を、1934年には「紋章」を刊行。翌年、「純文学にして通俗小説、このこと以外に、文藝復興は絶對に有り得ない」と説く「純粋小説論」、それを実行した「家族会議」を発表する。「純粋小説論」はこの頃に翻訳が出たアンドレ・ジッドの「贋金つくり」が影響している。

1936年、半年間、ヨーロッパを旅行する。この経験をもとに、翌年から「旅愁」の連載をはじめる。又、このころから段々と大東亜戦争の影が文学界にも影を落としてくる。世相が戦争に向かう中、国粋主義的傾向を強めてゆき、文芸銃後運動に加わる。このことにより敗戦後文壇の戦犯と名指しで非難されることになり、横光の評価を落としていくことになる。 1945年6月、山形に疎開。疎開先で健康を害する。敗戦後、帰京。翌年、「旅愁」四篇(未完)を刊行する。 1947年、「夜の靴」発表後、12月30日、49歳で急性腹膜炎のため死去。

翌年、1月3日葬儀で川端康成が弔辞にて「君の名に傍えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた」と常に川端の名前が横光の後に挙げられることを述べ、「君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれるであらう。君と、最後に会った時、生死の境にたゆたふやうな君の眼差の無限の懐かしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか」と早すぎる別れを惜しんだ。同年、遺作である「微笑」が発表される。

墓は東京都府中市にある多磨霊園にある。戒名、光文院釈雨過居士。

評価

横光利一の評価は戦後の批判により地に落ちた。だが、2002年に横光利一事典がでるなど再評価がされつつある。 作品としてみると「蝿」や「ナポレオンと田虫」「上海」などをみると映像を意識した作品が数多くあるが、これは同時代に上映された「戦艦ポチョムキン」に見られるモンタージュ技法に非常に近いものがある。

主な作品

  • 御身
  • ナポレオンと田虫
  • 春は馬車に乗って
  • 上海
  • 日輪
  • 機械
  • 紋章
  • 寝園
  • 家族会議
  • 純粋小説論
  • 旅愁
  • 夜の靴
  • 微笑

関連項目

外部リンク