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禅林墨跡

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与虎丘紹隆印可状』(圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝
与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝)

禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)とは、禅林高僧真跡のこと。印可状字号法語偈頌遺偈尺牘などがある。単に墨跡ともいい、墨蹟墨迹とも書く。

墨跡という語は中国では真跡全般を意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは禅林墨跡、または禅宗様という(本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す)[1][2][3][4][5]

概要

与無象静照偈頌』(虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝)

鎌倉時代から日中の禅僧の交流が興り、代の禅宗の伝来とともに、精神を重視する自由で人間味に富んだ禅僧のが流入した。これが武士階級の趣向と合致して多大な影響を及ぼし、墨跡という新しい書の分野が生まれ、日本の書道史上重要な位置を占めるようになった。

やがて室町時代茶道が流行すると、墨跡は古筆切とともに茶席の第一の掛物として欠くことのできない地位を獲得し、一国一城をかけても一幅の墨跡に替えるといった狂言的な風潮も生まれた。特に江戸時代の大徳寺の禅僧の間で流行し、多くの墨跡が遺され、今日ではそれが墨跡の主流となっている[1][3][6][7][8][9]

墨跡の範囲
墨跡の範囲は、中国の宋・元・明代の禅僧の書、日本の鎌倉時代から室町時代前期までの五山全盛時代の禅僧の書、江戸時代の大徳寺や妙心寺の禅僧の書をさす。さらに黄檗の三筆に代表される黄檗宗の書も入れているが、その中心は臨済宗のものである。また例外的に居士である張即之馮子振の書も墨跡として扱われる場合が多い[4][10]
墨跡の書風
墨跡は、本来、法のために書くものであって、禅心のあらわれであり、書として鑑賞するために書いたものではない。したがって法脈継承の証や、高僧の精神にふれる縁として、それを書いた人物と内容が重視され、一般に書の巧拙を問題としない。つまり書法にとらわれず各人が自在に自己の人間性を表現するものである。自ずとその書風は千差万別であるが、大まかに分類すると、鎌倉時代の墨跡は宋の蘇軾・黄庭堅風や張即之風(晋唐の書の規範や伝統から解放された自由剛健なもので、奈良朝以来行われた線の軟らかい王羲之風のものとは全く趣きを異にするもの)、室町時代は元の趙孟頫風(本格的な伝統書法に基づくもの)、江戸時代は明の文徴明祝允明董其昌風が加味された[3][10][11][12]

背景

法語・規則』(『法語』のみ、蘭渓道隆筆、建長寺蔵、国宝)

墨跡という語

墨跡という語は、古くは中国・六朝時代の『宋書范曄伝に、「示以墨蹟[13][14]の用例が見えるが、宋代になってから広く普及した。単に真跡を意味していた語であったが、禅僧の詩文集に墨跡と記され、そこに禅僧の書が数多く含まれていた。ちょうどこの頃に鎌倉時代の日本の禅僧が入宋し、禅を学び、持ち帰った禅僧の書を特に意味のないまま墨跡と称していたが、それがやがて専ら禅僧の書を指すようになったと推察される[3][15]

墨跡を禅僧の真跡という日本独自の使用例が見られるものに、貞治2年/正平18年(1363年)の年紀を有する『仏日庵公物目録』(ぶつにちあんくもつもくろく、円覚寺塔頭・仏日庵に蔵した書画を著録したもの)があり、「墨蹟」という項目を設けて中国の禅僧の書と記している。法然日蓮ら他宗の僧侶の筆跡に対して墨跡という言葉が用いれた例はほとんどない[3][15][16]

中国(宋・元)

中国の伝統的書法である晋唐の書を大きく革新させたのは北宋の蘇軾・黄庭堅・米芾の三大家であるが、その書風は南宋に及んでも流行し、大多数の書人はその書風に属するものであった。しかし、南宋中期から次第に晋唐へと復古する傾向が見られ、それがやがて元の趙孟頫の復古調の全盛時代につながっていく。これが宋・元時代の書道の大勢であるが、この時期、中国では最も禅仏教が盛況を呈した。宋代の禅宗は、曹洞宗法眼宗雲門宗潙仰宗臨済宗の五家とその臨済宗が楊岐派黄龍派に分かれることから五家七宗と称している。

鎌倉時代初期から日本の僧侶が相次いで入宋し、臨済宗の法灯を伝え、特に楊岐派が日本で栄えた。そして宋・元の間(日本では鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて)、中国の禅僧が日本に来朝、または帰化するものが多く、両国の交流は臨済宗の禅僧を介して密接になっていった。その影響は、日本の政治文学建築芸術にまで及び、書道の方面にも反映した。

『禅院額字方丈二大字』(張即之筆、東福寺蔵、国宝)

入宋・入元した禅僧は、その参禅した師匠から書き与えられた印可状字号法語偈頌などを持ち帰った。それが大切に保存され、墨跡として珍重されて今日でも鑑賞することができる。来日した中国の名僧は、宋代では蘭渓道隆兀庵普寧大休正念、元代では無学祖元一山一寧西礀子曇霊山道隠清拙正澄明極楚俊竺仙梵僊などで、多くの墨跡を遺した。

このように中国禅僧の墨跡は日本の禅僧が持ち帰ったものと来朝して書いたものとがあるが、ほぼ圜悟克勤の系統の楊岐派のものに限られている。その中で特に注目された墨跡は、まず第一に圜悟克勤のもの、その法嗣の大慧宗杲のもの、密庵咸傑無準師範虚堂智愚など虎丘派のものである。これらの禅僧は張即之と交流を結び、その影響を受けた者が多い。元時代では、趙孟頫の書が一世を風靡し、趙孟頫を学ぶものが多く、技法の上でも相当すぐれ、宋代の墨跡に見られたような精神的なものばかりではなくなった。松源派古林清茂月江正印了庵清欲大慧派楚石梵琦などの書は日本で墨跡として注目されただけでなく、元朝でも書の名家として知られた[3][11][12][15]

居士の書と墨跡
与無隠元晦詩』(馮子振筆、東京国立博物館蔵、国宝)
宋・元の時代、居士仏教が流行し、文化人でも参禅した者が多く、北宋の王安石蘇軾黄庭堅、南宋末の張即之、元の馮子振などが知られる。特に黄庭堅の書は禅林の墨跡に大きな影響を与えており、墨跡には黄庭堅風のものがみられ、張即之・馮子振の書は禅家に尊ばれて墨跡同様に鑑賞されている。
蘇軾は臨済宗黄龍派の東林常総(とうりん じょうそう)から印可を受け、黄庭堅も晦堂祖心(かいどう そしん、1025年 - 1100年)の法を嗣いだとされる。張即之は禅に造詣が深く、無文道璨らの禅僧と交際した。入宋した禅僧たちは張即之の書を将来したため、日本には張即之の書とされるものが多く伝わっている。元の馮子振も禅学に心を寄せ、元代禅林の巨頭・中峰明本古林清茂らと親しく交わったため、入元の禅僧によって日本にその禅僧とは異なった清新な書風の書がもたらされ、やはり禅林の書と同様に墨跡とよばれて茶人の間で愛玩された。また趙孟頫も中峰明本を師と仰ぎ、馮子振とも親交が深かった[11][12][17][18][19][20]

日本(鎌倉・室町)

渓林偈・南嶽偈』(宗峰妙超筆、正木美術館蔵、国宝)

平安時代から鎌倉時代に移行して天皇を頂点とする古代的支配が崩壊し、将軍を頂点とする封建的支配が成立した。この一大変革により、社会・経済はもちろん、文化にも著しい変革があり、公家文化から武家文化がはじまった。その文化現象の特徴は現実的・写実的といえ、実用性と個性を重視した。書の世界にもこの変革の様子は平安時代末期から伺える[21][22][23]

そもそも日本の書道は、中国の王羲之王献之の書を宗として発達してきたものである。その二王の書は中国において優麗典雅な貴族趣味に支持されてきたものであるがゆえに日本の平安朝の貴族に受け入れられた。したがって鎌倉時代になって、その貴族が没落し、日本の書道が大きく変革せざるを得なかったのは当然の成り行きであった。そして、それまでの世尊寺流と異なる力強さにあふれた法性寺流という革新的な書が平安時代末期から鎌倉時代初期に大流行した。その後はその法性寺流の流れにある後京極流がその字形を保ち、鎌倉時代を通して多くの人に影響を与えた。このように鎌倉時代の書は大改革されるが、美を追求した平安時代とは異なり、文字の実用面がより大きな位置を占めたのである[9][21][23]

さらに宋朝に新しく興った革新書道が伝来してその変革に拍車がかかった。その二王の典型に反発した個性的な新書風の特徴をもっとも著しく具えていたのが、黄庭堅張即之の書であった[21]

関山字号』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)

日本に初めてその新書風を伝えたのは栄西である。栄西は仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)に入宋し、深く禅教を究め、建久2年(1191年)に帰朝して臨済派の禅宗を伝えた。2回目の入宋時、南宋は栄えて勢力の盛んなときで、黄庭堅の書風が流行していた。よって、栄西の筆法には黄庭堅を偲ばせるものがある。栄西に次いで新書風を伝えたのは俊芿である。俊芿は正治元年(1199年)に入宋し、建暦元年(1211年)に帰朝した。俊芿も黄庭堅をよく学び、帰朝に際し、多数の書法の資料を持って帰り、日本の書法の上に及ぼした影響は甚大であった[21][22]

東福寺開山円爾は、嘉禎元年(1235年)から6年間、南宋に留学した。この頃、南宋では張即之が書法の大家として名声を恣にしていた時代である。円爾は書法に深い関心を持っており、張即之の法に私淑し、帰朝に際して張即之の書を持ち帰っている。現在、東福寺には、「首座」、「書記」、「方丈」などと書かれた大きな額字が蔵せられているが、張即之の筆と伝えられるもので、みな円爾が持ち帰ったものといわれている[21]

禅宗は鎌倉幕府に迎えられ、武家の帰依をえて鎌倉五山が定められた。よって僧侶の地位が高く、墨跡はますます盛行した。鎌倉時代中頃になると幕府は禅宗を重視し、日本の禅僧の誘いや幕府の招聘を受けて優れた中国の禅僧が来朝するようになる。その来朝僧の第一は建長寺開山蘭渓道隆であり、その書風は張即之と見違えるほどである。このように張即之の書は円爾と蘭渓道隆によって日本の新書風の典型となり、その影響は大きなものであった。

日本の禅僧としては、大徳寺の開山・宗峰妙超一休宗純が最も人気を得た。いずれも独自の特色ある書風を展開し、特に宗峰妙超は禅僧のもたらした中国書法の影響を受け、日本第一の墨跡として尊重されている[3][9][21][23][24]

禅宗は鎌倉幕府以後も公家や武家の帰依を得て、京都でも京都五山が定められた。その禅僧の中には詩人が多かったため、蘇軾や黄庭堅の詩書が珍重され、禅林に宋風の書が流行し、「東坡山谷、味噌、醤油」は当時の禅僧の生活に不可欠なものといわれるほどであった。東山文化以降、禅をその精神的基盤とする茶道が盛んであったため、墨跡や古筆を茶室の装飾品として愛玩する風習が起こり、これを秀吉が好んだことから民間にも広まった。その後、茶道の発達にともないその表装も贅をつくすようになり、永く国民に珍重された。このように墨跡の日本の書道に与えた影響は大きく、江戸時代にかけて発達してゆく唐様の根底となったのである[10][11][12][25]

日中の墨跡の評価

墨跡の多くは中国伝統の書法から離れた破格の書である。伝統を重んじる中国ではそれに反するものは異端として拒否する傾向が強いため、中国では墨跡を珍重することはなかった。よって中国では今日、それらの墨跡はほとんど遺っていない。日本には根強い文化の伝統がないため容易に受け入れられ、嗣法や門派の証、また高徳の僧を偲ぶよすがとしてその墨跡を重んじた。ここに両国の国民性の違いが伺えるが、その伝統を重んずる中国において破格の書である墨跡が生まれたのは禅宗の教えからくる。禅宗では一切の権威と伝統を認めないため、書法においてもこれまで絶対的な権威と仰がれてきた王羲之の典型を否定し、ただ自己の個性を天真爛漫に発揮するだけである。しかし中国の古い文化の伝統はこのような禅の精神による芸術を喜ばないのである[11][15]

日本において墨跡が室町時代末期から茶の世界において尊重されたのは事実であるが、書としての芸術性という面から鑑賞されるようになったのは近代になってからのことである。大勢からいうと鎌倉時代の書法を支配していたのは世尊寺流法性寺流などの和様であり、この時代の書流の本流であった。ただ古来の伝統を守る和様の書が極めて保守的で形式化し、ほとんど個性が見出せず、生気を欠いていたことから、墨跡に比べて注目度が低い傾向にある。墨跡には迫力ある作品が多く、鎌倉時代を代表する書の一つであることは否定できないが、一般に流行した書というわけではない。当時の知識層の中でも特に上層の禅僧と一部の進歩的な思想を抱く限られた公家や武家の間に好まれたに過ぎなかった。つまり小社会の単位での書の世界であった。その理由の一つに、宋朝の新書風が本格的な書人によって伝えられたのものでなく、個性の強い禅僧によってはなはだ歪曲されたため、真の宋朝の新書風の品格と筆法が認められなかったことがあげられる[9][21][23]

墨跡の内容

与関山慧玄印可状』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)
月林道号』(古林清茂筆、長福寺蔵、国宝)
清拙正澄遺偈』(清拙正澄筆、常盤山文庫蔵、国宝)
了庵清欲進道語』(了庵清欲筆、東京国立博物館蔵、国宝)

墨跡の内容は禅家特有のもので難解なものが多く、また実にさまざまであるが、大別すると次のように分けることができる[4][10]

印可状
印可状(いんかじょう)とは、印可の証として作成される書面のこと。つまり師僧が修行僧に対して悟りを開いたことを認めた証明書であるため、その授受は禅宗において大変重要なことであり、墨跡の中で最も高い位置を占める。圜悟克勤の『与虎丘紹隆印可状』、宗峰妙超の『与関山慧玄印可状』、無準師範の『与円爾印可状』などがある[3][4][16][26]
字号
字号(じごう、道号法号とも)とは、師僧が修行僧の号を書き与えたもの。号を大書し、偈頌を書き添えて与えるのが一般的である。この偈頌は、道号頌(どうごうのじゅ)などと称し、字号の由来や意義を詠んだ漢詩である。師僧が修行僧を一人前の禅僧として認めたときに与えるもので、印可状同様に重要とされる。宗峰妙超の『関山字号』、古林清茂の『月林道号』などがある[3][4][16][26]
法語
法語(ほうご)とは、師僧が修行僧に説法を書き与えたもの。広義には師弟間のみならず、同輩間においても贈られる。進道語餞別語なども含まれる。蘭渓道隆の『法語・規則』などがある[3][4][16][26]
偈頌
偈頌(げじゅ、単に偈、または頌とも)とは、仏の教えを漢詩で書いたもの。内容は法語と似ているが、法語が散文体であるのに対し、偈頌は五言・七言の韻文体で表現している。遺偈」、餞別偈道号頌、投機偈(とうきのげ、師僧からの公案に対して修行僧が悟りの心境を詠んだ漢詩)などに細分される。虚堂智愚の『与無象静照偈頌』、宗峰妙超の『渓林偈・南嶽偈』などがある[3][4][16][26]
遺偈
遺偈(ゆいげ)とは、臨終を前に門弟に遺す偈頌。禅僧特有のもので、死ぬ前に一言弟子たちに偈を遺す習慣があった。一生涯の悟りの境地が表された遺偈は偈の中でも特に珍重される。『清拙正澄遺偈』などがある[3][4][16][26]
餞別語
餞別語(せんべつご、餞別偈とも)とは、日本から中国に渡航し、修行を終えて帰る禅僧に師友が餞別として書いて贈る法語、または偈頌月江正印の『与鉄舟徳済餞別語』などがある[3][4]
進道語
進道語(しんどうご)とは、師友の間で後進の修行僧に禅の肝要を書き与え、激励したもの。『了庵清欲進道語』などがある[3][4][16]
額字
額字(がくじ)とは、禅院に掲げる額の文字。寺名・軒名・室銘などがある。東福寺の円爾が中国から持ち帰った張即之無準師範のものが有名である。この2人の力強い筆線と確固たる書風は、後世の額字や道号の書にも受け継がれ、一つの模範となった。張即之の『禅院額字方丈二大字』、楚石梵琦の『心華室銘』などがある[3][4][16]
頂相
頂相(ちんぞう)とは、修行僧に与える師僧の肖像画が書かれるのが一般的であるが、頂相の賛を特に像賛(ぞうさん、絵画全般に添えられた賛は画賛)という[3][26]

禅林高僧の略伝と墨跡の解説

以下、著名な墨跡を遺している主な高僧の略伝とその墨跡を解説する(居士の馮子振を含む)。

圜悟克勤


与虎丘紹隆印可状』(圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝

圜悟の書は気品に富み、風格が高い。一休宗純が印可の証として圜悟の墨跡を村田珠光に与えて以来、茶道において非常に尊重され、今日、日本に伝わる最高位、また最古のものとなっている。圜悟には大慧宗杲虎丘紹隆の高弟がいるが、大慧派には墨跡を遺しているものは少なく、虎丘派が多くの墨跡を遺している[3][15][27][28][29]

与虎丘紹隆印可状
『与虎丘紹隆印可状』(くきゅうじょうりゅうにあたう いんかじょう)は、宣和6年(1124年)12月、圜悟が弟子の虎丘紹隆に与えた印可状。この印可状は中国から桐の筒に入って薩摩坊津の海岸に流れた着いたという伝説があり、これにより俗に『流れ圜悟』と呼ばれる。後半37行を失い、前半19行だけが現存する。小字だが、線は肥痩の変化に富み、字形は米芾の影響が見られる。わび茶に用いられた最初の墨跡とされ、墨跡中、最高位の絶品である。紙本。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は圜悟克勤墨蹟(印可状)[3][11][27][29][30]

大慧宗杲


与無相居士尺牘』(大慧宗杲筆、東京国立博物館蔵、国宝)

圜悟克勤法嗣大慧派禅門の祖として著名である[31]

与無相居士尺牘
『与無相居士尺牘』(むそうこじにあたう せきとく)は、紹興25年(1155年)頃、大慧が友人の無相居士にあてた尺牘。当時、南宋はの侵略を恐れて金と和議を結んだが、大慧は主戦論者を支持したとされて流謫の身となった。この書簡はその流謫の地・梅州から送ったもので、自らの安否を伝え、居士の動静を知りたいと述べている。大慧の筆跡は当時から有名で、この墨跡は書簡であるから自ずと率意の書であるが、米芾と蘇軾の影響が見られ、気迫に満ち溢れている。紙本、38.1cm×65.7cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は大慧宗杲墨蹟(尺牘 十月初二日)[3][27][31][32]

楚石梵琦


楚石梵琦(そせき ぼんき、1296年 - 1370年)は、中国・元時代の禅僧。仏日普照慧弁禅師。字は曇曜、俗姓は朱、西寧老人・西斎老人などと号した。象山の人。元叟行端の法嗣。月江正印とともに元代禅林を代表する。詩書をよくし、その墨跡は元の禅僧中、伝統書法を示した第一人者で、最も趙孟頫の書風に近い。よって墨跡としては珍しく端正な書風で日本では甚だ尊重される。『心華室銘』はその代表作である[11][33][34][35]

心華室銘
『心華室銘』(しんげしつめい)は、至正26年(1366年)9月、楚石が入元僧・無我省吾の居室に銘したもの。無我は金陵牛頭山にあるこの居室で亡くなった。全8行・毎行24字の大幅。永青文庫蔵。重要文化財
無我省吾(むが しょうご、1310年 - 1381年)は、日本・南北朝時代の禅僧。用章廷俊の法嗣[35][36]

密庵咸傑


密庵咸傑(みったん かんけつ、1107年(または1118年) - 1186年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は咸傑、俗姓は鄭。福清の人。応庵曇華の法嗣。南宋はじめの禅林の巨匠である。密庵門下の松源崇岳破庵祖先曹源道生の3人を密庵下の三傑と称し、この法系から多くの墨跡を生んだ。著名な墨跡の筆者は、松源派では、中国の古林清茂了庵清欲虚堂智愚蘭渓道隆、日本の宗峰妙超一休宗純破庵派では、中国の無準師範中峰明本無学祖元清拙正澄、日本の夢窓疎石曹源派では、中国の一山一寧、日本の雪村友梅などがあげられる[11][15][27][37][38]

密庵咸傑法語
淳熙6年(1179年)8月、密庵に随従した璋禅人という人物の求めに応じて、禅の要旨を書き与えた法語(印可状とも見られる)。27行290文字を異例ともいうべき綾絹の上に行書で濃淡自由に書いている。密庵は書法に長じたが、その墨跡は稀で、本『法語』が唯一とされ、これを秘蔵する龍光院には、この墨跡以外は掛けないという「密庵床」と称するが特設され、その茶席を「密庵席」と称している。龍光院蔵。国宝(指定名称は密庵咸傑墨蹟(法語 淳熙己亥仲秋日)[11][27][37][38]

古林清茂


月林道号』(古林清茂筆、長福寺蔵、国宝)
与別源円旨送別偈』(古林清茂筆、五島美術館蔵、国宝)

古林清茂(くりん せいむ、1262年 - 1329年)は、中国・宋元時代の禅僧。俗姓は林、諱は清茂、字は古林、金剛憧・休居叟などと号した。温州の人。横川如珙法嗣、門下に了庵清欲竺仙梵僊、日本僧では月林道皎石室善玖らがいる。中峰明本と並んで元代中期の禅林の巨匠で、当時、日本からの渡航僧で古林に参ぜぬものなしといわれたほどの高僧である。詩文をよくし、また、馮子振と交遊ふかく、最も書法に長じ、その書は格調高く貫禄を備えている[39][40][41]

月林道号
『月林道号』(げつりん どうごう)は、泰定4年(1327年)3月、月林道皎に書き与えた「月林」の道号。号のあとに七言絶句一首の偈がある。長福寺蔵。国宝(指定名称は古林清茂墨蹟(月林道号 泰定四年三月望日)[40]
与別源円旨送別偈
『与別源円旨送別偈』(べつげんえんしにあたう そうべつのげ)は、泰定2年(1325年)、入元僧・別源円旨に書き与えた。別源が帰朝する5年前に与えられたもので送別偈といわれるが、内容は印可状と同じ意味の重さを持つ。織田信長が秘蔵していたという由緒ある墨跡である。五島美術館蔵。国宝(指定名称は古林清茂墨蹟(別源円旨送別偈 泰定二年九月二日))。
別源円旨(べつげん えんし、1294年 - 1364年)は、日本・鎌倉から南北朝時代の禅僧。別源は帰朝後、弘祥寺の開山となり、五山文学にも名を馳せた人である[40]
送幽禅人偈頌
『送幽禅人偈頌』(そうゆうぜんじん げじゅ)は、泰定3年(1326年)、幽禅人に与えた偈。幽禅人は、曇幽という入元の日本僧といわれている。松永安左エ門[39][42]

了庵清欲


了庵清欲進道語』(了庵清欲筆、東京国立博物館蔵、国宝)

了庵清欲(りょうあん せいよく、1288年 - 1363年)は、中国・元時代の禅僧。俗姓は朱、号は南堂。台州の人。古林清茂の法嗣[43][44]

了庵清欲進道語
至元7年(1341年)1月、了庵が的蔵主に書き与えた進道語。ただし、的蔵主が何人であるか不明である。書風は温順端正を極め、趙孟頫の影響が見られる。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は了菴清欲墨蹟(法語 至元七年正月十七日)[43][45]

月江正印


月江正印(げっこう しょういん、1267年 - ?)は、中国・元時代の禅僧。仏心普鑑禅師。俗姓は劉、松月翁と号した。福州の人。虎巌浄伏の法嗣。清拙正澄の実兄にあたる[46][47]

与鉄舟徳済餞別語
『与鉄舟徳済餞別語』(てっしゅうとくさいにあたう せんべつご)は、月江が至正3年(1343年)、鉄舟徳済に書き与えた餞別語五島美術館蔵。重要文化財
鉄舟徳済(てっしゅう とくさい、? - 1366年)は、日本・室町時代の禅僧。夢窓疎石の法嗣。在元中、順宗から円通大師の号を贈られた[46]

虚堂智愚


与無象静照偈頌』(虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝)

虚堂智愚(きどう ちぐ、1185年 - 1269年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は智愚、息耕(そくこう)・息耕叟と号し、俗姓は陳。象山の人。運庵普巌法嗣、門下に霊石如芝、日本僧では南浦紹明らがいる。南浦紹明の弟子が大徳寺の開山・宗峰妙超であるが、大徳寺は茶道と縁が深く、茶道において宗峰の師としての虚堂の墨跡は鎌倉時代から特に重んじられた。その墨跡には張即之の書の影響が見られる。一休宗純は虚堂7世の孫である。著に『虚堂和尚語録』がある[3][11][18][48]

与無象静照偈頌
『与無象静照偈頌』(むしょうじょうしょうにあたう げじゅ)は、虚堂が入宋中の無象静照に与えた述懐の。京都の茶人・大文字屋が所蔵しているた折に破れたことから、俗に『破れ虚堂』と呼ばれる。「日」の字と左払いの用筆が特異である。紙本、28.5cm×70cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は虚堂智愚墨蹟(法語))。
無象静照(むしょう じょうしょう、1234年 - 1306年)は、日本・南北朝時代の禅僧。石渓心月の法嗣[3][11][18]

宗峰妙超


関山字号』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)
渓林偈・南嶽偈』(宗峰妙超筆、正木美術館蔵、国宝)
与関山慧玄印可状』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)

宗峰妙超の書は、宋元の墨跡に日本風を少し加えた日本的墨跡の走りの書に位置づけられる。当時より一級の墨跡として尊重されてきた[26][49]

関山字号
『関山字号』(かんざんじごう)は、嘉暦4年(1329年)、宗峰が関山慧玄に書き与えた「関山」の字号。現在は字号の下に七言偈が書かれているが、もとは字号の横に偈が書かれた巻子になっていた。縦66.7cm。妙心寺蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(関山字号 嘉暦己巳仲春)[50][51]
渓林偈・南嶽偈
『渓林偈・南嶽偈』(けいりんげ・なんがくげ、『虚堂和尚上堂語』とも)は、『渓林偈』と『南嶽偈』の両幅からなり、ともに虚堂智愚の上堂の語を書したもの。『虚堂和尚語録』巻1にその語が見える。語句の内容上、両幅に何の関係もないが、筆致からして同じ時期に書いたものと考えられる。『渓林偈』の最後に「寒」の字があるのは、途中、書き落としたためであり、本来は、「溪林葉墮塞鴈聲」の次に「寒」が入る。紙本、89.9cm[52]×34.2cm(各幅)。正木美術館蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(渓林、南嶽偈)[53]
与関山慧玄印可状
『与関山慧玄印可状』(かんざんえげんにあたう いんかじょう)は、元徳2年(1330年)、宗峰が関山慧玄に書き与えた印可状。妙心寺蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(印可状 元徳二年仲夏上澣)[54]
看読真詮榜
看読真詮榜(かんどくしんせんぼう、看経榜(かんきんぼう)とも)とは、正月の修正会や7月の盂蘭盆会などに読む名や名を列挙し、担当僧が自分の名前を経名や呪名の下に書くもの。とは一般大衆に告知する掲示のこと。
『看読真詮榜』は、宗峰が担当僧である宗鏡の代わりに書いた榜語。古くより最も著名な墨跡の一つとされている。年紀はないが、榜語の内容から建武元年(1334年)の修正会に際しての看経榜と考えられる。巻末に「宗鏡」の署名があるが、宗鏡が書いたのはこの署名のみで、他は書風から宗峰の書として知られる。その書風は黄庭堅の影響を受けたもので、豪放で堂々とした筆致であり、驚くべき精神力を感じさせる。紙本、32.8cm×835.9cm。真珠庵蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(看読真詮榜)[3][26][53][55][56]

蘭渓道隆


法語・規則』(『法語』のみ、蘭渓道隆筆、建長寺蔵、国宝)

蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした張即之の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物として日本書道史上注目される。したがって蘭渓の書は常に張即之の書と比較される[57][58][59]

法語・規則
『法語・規則』は、「見鞭影而後行」の文にはじまる『法語』と、「長老首座」にはじまる『規則』との対幅になっている。『法語』の内容は、衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したものであり、『規則』の内容は、行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すというもので、両内容とも、『大覚拾遺録』に収めれている。年紀はないが、蘭渓が建長寺に住していたときに両幅をほぼ同時に書いたと考えられる。書式文章ともに謹厳なもので、その書風から張即之流を学びながらもそれに拘泥しない禅人の質実な態度が伺われる。紙本、85.1cm×41.5cm(『法語』)、84.8cm×40.9cm(『規則』)。建長寺蔵。国宝(指定名称は大覚禅師墨蹟(法語規則)[57][59]

無準師範


与円爾尺牘』(無準師範筆、東京国立博物館蔵、国宝)
与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝)
与長楽寺一翁偈語』(無学祖元筆、相国寺蔵、国宝)
清拙正澄遺偈』(清拙正澄筆、常盤山文庫蔵、国宝)

無準師範(ぶしゅん しばん、1177年 - 1249年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は師範、俗姓は雍。四川省綿州梓潼県の人。破庵祖先の法嗣、門下に雪巌祖欽兀庵普寧無学祖元、日本僧では円爾がいる。宋代禅林中の巨匠で、理宗から仏鑑禅師を諡された。中国五山の第一たる径山万寿寺の第34世に住し、円爾を初めとして日本から無準に参じた僧は多く、日本禅林との関係は最も深く、最も強い影響を与えている。書法に長じ、多くの墨跡の名品を日本に伝えている。その書は張即之の書風で、雄渾な大字で知られるが、『与円爾尺牘』の細字には別趣の味わいがあり、いずれも極めて格調が高い。著に『仏鑑禅師語録』が知られる[11][27][60][61][62][63]

与円爾尺牘
『与円爾尺牘』(えんににあたう せきとく)は、無準が円爾に書いた謝礼の尺牘。円爾が帰朝した翌年の淳祐2年/仁治3年(1242年)の夏、径山の寺塔が火事になり、円爾はその復興のために博多から板1,000枚を径山に送った。それに対する無準の謝礼の尺牘が本状であるため、俗に『板渡しの墨跡』と呼ばれ珍重されている。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は無準師範墨蹟(尺牘)[62]
与円爾印可状
『与円爾印可状』(えんににあたう いんかじょう)は、嘉熙元年(1237年)10月、無準が円爾に書き与えた印可状。「道無南北」の文からはじまるこの墨跡は、円爾が径山に上った翌年に与えられた。絹本、53.9cm×102.7cm。東福寺蔵。国宝(指定名称は無準師範墨蹟(円爾印可状 丁酉歳十月)[27]

無学祖元


与長楽寺一翁偈語
『与長楽寺一翁偈語』(ちょうらくじ いっとうにあたう げご)は、弘安2年(1279年)、上野国世良田・長楽寺一翁院豪(いっとういんごう)に書いて与えた偈。もとは巻子であったと考えられるが、今は4幅に分けて表装されている。第3、4幅は跋語になっており、その跋語によると、一翁は無準師範の門下で、無学祖元と同門にあたるとある。無学の書は概ね行書を用い、甚だ格調が高い。紙本、31.5cm×86.5cm(各幅)。相国寺蔵。国宝(指定名称は無学祖元墨蹟(与長楽寺一翁偈語 弘安二年十一月一日)[11][64][65]

清拙正澄


清拙正澄(せいせつ せいちょう、1274年 - 1339年)は、中国・元時代の禅僧。愚極智恵の法嗣、月江正印の実弟にあたる[66]

清拙正澄遺偈
暦応2年(1339年)1月17日、清拙正澄が入寂に際し書いた遺偈。数ある遺偈の中でも出色の墨跡として知られる。その臨終に間に合わなかった弟子が棺にすがって号泣したところ、棺を割って現れて戒法を授け、また眼を閉じたという伝説から、俗に『棺割の墨跡』(かんわりのぼくせき)という。常盤山文庫蔵。国宝(指定名称は清拙正澄墨蹟(遺偈 暦応二年正月十七日)[50][66]

馮子振


馮子振(ふう ししん、1257年 - 1327年以降)は、中国・元時代の居士の俊英として知られた。字は海粟(かいぞく)、海粟道人・怪道人などと号した。攸州の人。官は集賢待制史となる。博学で詩文にすぐれ、その博識ぶりは天下の書で彼が知らないものはないと言われた。よって当時、能書家の趙孟頫とともに文名を馳せたが、馮子振の書風は特異であったため、書人としての名はなかったようで、その書を記載する文献は少ない。

馮子振は禅学に心を寄せ、中峰明本古林清茂と親交があったため、僧侶ではないがその書は無隠元晦放牛光林(ほうぎゅう こうりん、1289年 - 1373年)・月林道皎ら入元の禅僧らによって日本にもたらされ、墨跡と同等に尊重された。無隠と放牛は馮子振と交友があり、その書は馮子振から直接、贈られたものである[17][67][68][69][70]

与無隠元晦詩
与無隠元晦詩』(馮子振筆、東京国立博物館蔵、国宝)
『与無隠元晦詩』(むいんげんかいにあたう し)は、馮子振が元朝に滞留中の無隠元晦に書き与えた偈。皇慶延祐年間(1312年 - 1319年)の頃のものと推定されている。黄庭堅の書法をふまえたもの。紙本、32.7cm×102.5cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は馮子振墨蹟(与無隠元晦詩))。
無隠元晦(むいん げんかい、? - 1358年)は、日本・南北朝時代の禅僧。無隠は入元して中峰明本の法嗣となった。豊前の人[67][69][70]

禅林墨跡略系譜

以下、多くの墨跡を遺した臨済宗楊岐派の略系譜を記す[3][11][12][15][29][46][67][71][72][73][74]

臨済宗楊岐派

圜悟克勤の墨跡が、今日、日本に伝わる最古のもの[28]

大慧派


以下、大慧宗杲の法系を記す。

  • 拙庵徳光(せつたんとくこう、1121年 - 1203年、中国・南宋)
    • 北礀居簡(ほっかんきょかん、1164年 - 1246年、敬叟居簡とも、中国・南宋)
      • 物初大観(もっしょたいかん、1201年 - 1268年、中国・南宋)
        • 晦機元煕(1238年 - 1319年、中国・南宋)
          • 笑隠大訢(しょういんだいきん、1284年 - 1344年、中国・南宋から元)
    • 浙翁如琰(せっとうにょえん、1151年 - 1225年、中国・南宋)
      • 偃渓広聞(えんけいこうもん、1189年 - 1263年、中国・南宋)
      • 大川普済(たいせんふさい、1179年 - 1253年、中国・南宋)
    • 妙峰之善(みょうほうしぜん、1152年 - 1235年、中国・南宋)
      • 蔵叟善珍(ぞうそうぜんちん、1194年 - 1277年、中国・南宋)
  • 無用浄全(むゆうじょうぜん、1137年 - 1207年、中国・南宋)
    • 笑翁妙堪(しょうおうみょうたん、1176年 - 1247年、中国・南宋)
      • 無文道璨(むもんどうさん、1214年 - 1271年、中国・南宋)

虎丘派


以下、虎丘紹隆の法系を記す。

松源派

以下、松源崇岳の法系を記す。

虚堂の法系

以下、虚堂智愚の法系を記す。

破庵派

以下、破庵祖先の法系を記す。

曹源派

以下、曹源道生の法系を記す。

脚注

  1. ^ a b 中西慶爾 p.595
  2. ^ 中西慶爾 p.897
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 峯岸佳葉 pp..127-128
  4. ^ a b c d e f g h i j k 小松茂美 pp..26-27
  5. ^ 鈴木翠軒 p.133
  6. ^ 可成屋 pp..4-5
  7. ^ 二玄社(書道辞典) p.239
  8. ^ 山内常正 pp..56-57
  9. ^ a b c d 名児耶明(決定版 日本書道史) pp..87-91
  10. ^ a b c d 鈴木翠軒 pp..142-143
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n 鈴木洋保 pp..110-113
  12. ^ a b c d e 中田勇次郎(書道藝術 中国書道史) pp..132-134
  13. ^ 諸橋轍次 3巻p.258
  14. ^ 『宋書』范曄伝の原文
  15. ^ a b c d e f g 神田喜一郎(宋代禅僧の墨跡) pp..19-24
  16. ^ a b c d e f g h 堀江知彦 pp..746-747
  17. ^ a b 鈴木洋保 p.102
  18. ^ a b c 西林昭一(五代・宋・金) pp..125-126
  19. ^ 西林昭一(五代・宋・金) p.77
  20. ^ 西林昭一(元・明) pp..44-45
  21. ^ a b c d e f g 神田喜一郎(日本書道史7 鎌倉Ⅱ) pp..1-11
  22. ^ a b 藤原鶴来 pp..288-290
  23. ^ a b c d 名児耶明(図説 日本書道史) pp..100-101
  24. ^ 鈴木翠軒 pp..133-134
  25. ^ 鈴木翠軒 pp..138-139
  26. ^ a b c d e f g h 可成屋 pp..70-71
  27. ^ a b c d e f g 福嶋俊翁 pp..163-166
  28. ^ a b 中西慶爾 p.45
  29. ^ a b c 堀江知彦 p.53
  30. ^ 中西慶爾 p.787
  31. ^ a b 堀江知彦 p.460
  32. ^ 中西慶爾 p.638
  33. ^ 中西慶爾 p.629
  34. ^ 二玄社(書道辞典) p.165
  35. ^ a b 堀江知彦 pp..454-455
  36. ^ 中西慶爾 p.506
  37. ^ a b 中西慶爾 p.910
  38. ^ a b 堀江知彦 768
  39. ^ a b 二玄社(書道辞典) p.73
  40. ^ a b c 堀江知彦 p.198
  41. ^ 中西慶爾 pp..212-213
  42. ^ 中西慶爾 p.618
  43. ^ a b 堀江知彦 p.855
  44. ^ 中西慶爾 p.1001
  45. ^ 中西慶爾 p.515
  46. ^ a b c 堀江知彦 p.205
  47. ^ 中西慶爾 pp..228-229
  48. ^ 中西慶爾 p.167
  49. ^ 石川九楊 pp..158-159
  50. ^ a b 名児耶明(決定版 日本書道史) pp..102-103
  51. ^ 堀江知彦 p.340
  52. ^ 『書道全集 第19巻』「日本7 鎌倉Ⅱ」「『虚堂和尚上堂語』宗峰妙超」(古田紹欽 p.159)に、縦12.5cmとあるが、これは明らかに誤りであるので、横34.2cmと同図版53のサイズ(25.5cm×9.7cm)から算出して89.9cmとした。
  53. ^ a b 古田紹欽 p.159
  54. ^ 古田紹欽 pp..20-28
  55. ^ 小松茂美 図版247
  56. ^ 名児耶明(図説 日本書道史) p.115
  57. ^ a b 中田勇次郎(日本7 鎌倉Ⅱ) pp..153-154
  58. ^ 中西慶爾 p.953
  59. ^ a b 新川晴風 p.834
  60. ^ 木村卜堂 pp..178-179
  61. ^ 二玄社(書道辞典) p.226
  62. ^ a b 堀江知彦 p.654
  63. ^ 中西慶爾 p.855
  64. ^ 中田勇次郎(日本7 鎌倉Ⅱ) p.156
  65. ^ 堀江知彦 p.788
  66. ^ a b 堀江知彦 p.408
  67. ^ a b c 堀江知彦 p.646
  68. ^ 中西慶爾 pp..844-845
  69. ^ a b 西林昭一(元・明) pp..44-45
  70. ^ a b 二玄社(書道辞典) p.223
  71. ^ 中西慶爾 p.596
  72. ^ 飯島春敬 p.748
  73. ^ 可成屋 pp..72-73
  74. ^ 古田紹欽 p.176

出典・参考文献

日本
中国
  • 「中国11 宋Ⅱ」(『書道全集 第16巻』平凡社、新版1971年(初版1967年))
    • 神田喜一郎「宋代禅僧の墨跡」
    • 福嶋俊翁「『印可状』無準師範」「『印可状』圜悟克勤」「『尺牘 与無相居士』大慧宗杲」「『法語』密庵咸傑」
  • 峯岸佳葉「墨跡について」(角井博監修『決定版 中国書道史』芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-165-2
  • 中西慶爾編『中国書道辞典』(木耳社、初版1981年)
  • 西林昭一・石田肇「五代・宋・金」(『ヴィジュアル書芸術全集 第7巻』 雄山閣、1992年)ISBN 4-639-01036-2
  • 西林昭一・澤田雅弘「元・明」(『ヴィジュアル書芸術全集 第8巻』 雄山閣、初版1992年)ISBN 4-639-01036-2
  • 鈴木洋保・弓野隆之・菅野智明『中国書人名鑑』(二玄社、初版2007年)ISBN 978-4-544-01078-7
  • 中田勇次郎「宋」(「中国書道史」『書道藝術 別巻第3』 中央公論社、初版1977年)

関連項目