荻田長繁
荻田 長繁(おぎた ながしげ、永禄5年(1562年) - 寛永18年11月4日(1641年12月8日))は戦国時代から江戸時代の武将。荻田主馬(三代目)の名で有名。子に早世した荻田孫市、孫に越後高田藩家老荻田隼人、その子に越後騒動中心人物の荻田本繁がいる。別名・孫十郎、主馬(三代目)。従五位下、主馬亮。
出生
上杉謙信配下の荻田備前守孫十郎を父に持つ。永禄2年(1559年)4月に二度目の上洛を果たし10月に越後に帰還した越後、信濃の諸将や直臣たちは太刀を贈ってこれを祝った。その名簿が「御太刀之次第」であり、「御馬廻年寄文之衆」に荻田備前守孫十郎の名がある。備前守孫十郎は翌永禄3年(1560年)、北条高広らと伊勢崎城(群馬県伊勢崎市)を攻め、永禄4年(1561年)の小田原城攻めにも参加している。
「新田老談記」によれば、後北条氏の傘下で渋川義勝が城主を務める小俣城(栃木県足利市)は周辺諸将と紛争を抱えていた。謙信は折を見て攻め落とすよう駐留軍や配下の関東諸将に命じていた。
城主義勝が小田原へ出向いて留守となった隙を突いて元亀3年(1572年)4月(正月とも)、備後守孫十郎は膳城(群馬県渋川市)城主膳備中守宗次とともに小俣城を攻めた。小俣勢は総勢百五十名足らず、越後勢は数倍の大軍であったという。突然の攻撃で籠城の準備もなく開城するしかないと思われた小俣勢であったが、城代石井尊空の「われら守勢が天下無双の上杉勢を迎え討ち、華々しく討ち死にすれば主君渋川義勝の小田原での立場がよくなり、御家再興にも有利になる。」という提言に奮い立った。上杉勢は膳宗次を先陣に攻めかかったが折りからの暴風雨で身動き出来なくなってしまう。そこへ小俣勢が丸太、大石を投げ落とし鉄砲を撃ちかけると膳宗次勢は敢え無く全滅、撤退の命令も届かぬ大雨の中で上杉勢は二~三百名の死者を出して逃げ帰った。これに対し小俣勢は死者どころか一人のけが人も出なかったと言う。
謙信の座右の銘である「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。」を敵である小俣勢が実行したのである。無敵のはずの上杉軍にとってまさに赤恥と言えた。当事者である膳宗次が戦死で敗戦責任を備前守孫十郎が負って失脚した時孫十郎長繁は11歳であった。
「春日山日記」によると天正4年(1576年)10月、「荻田(備前守孫十郎) 徳川家康への使者として三州へ赴く。下旬帰還。」大いに歓待を受け猿楽(能楽)を見物、帰りには馬を賜ったとある。この時孫十郎長繁は14歳である。
元服
天正5年(1577年)2月17日、孫十郎は元服し謙信より「長」の一字を賜り「長繁」と名乗る(上杉謙信一字状による長尾姓の「長」の下贈)。
御館の乱
天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が死去し、3月15日葬儀の直後、上杉景勝が春日山城実城(本丸、金蔵があった)を占拠すると上杉景虎との間で後継者をめぐる内乱に発展する。この御館の乱で長繁は、上杉景勝に味方し同年7月28日(春日山城大場口での戦い)、9月1日(春日山籠城)の二回、翌年2月3日に景勝から感状をもらっている。
天正7年(1579年)2月1日、上杉景虎派に属する北条景広を槍で刺殺。重鎮であり猛将であった景広が討ち取られた事もあり、景虎派は寝返り・離散が相次いだ。その事により組織だった戦略が取れなくなった景虎派の勢いは完全に消え、景勝の勝利を早める事に貢献した。このことにより、猛将の名を轟かせていた景広を討ち取った者として自らの名前が知れ渡る事となる。かつて伊勢崎城を一緒に攻めた備前守孫十郎と北条高広の子供同士が切り結ぶ結果となったのは不思議なものである。
天正11年(1583年)9月1日に景勝の清華成に伴い、従者である五位の諸大夫を持つことができることを受けて後陽成天皇の宣旨により、上杉家中では直江兼続の従五位下山城守(8月17日)と色部長真の従五位下修理大夫(8月20日)に次いで三番目の認可で、従五位下主馬亮に任じられた(下村效「荻田長繁の口宣案」戦国史研究25)、下村效「天正 文禄 慶長年間の公家成・諸大夫成一覧」(『栃木史学』7号、1993年)。
文禄三年定納員数目録上の内越後侍中定納一紙によれば荻田主馬丞分53人都合884石6斗1升2合9勺を賜っており注釈に但初糸魚川、後落水ノ城ニ被差置候、勝山ノ城ト後改被成候、其後宰配頭ニ被成候とある。越後分限帳には順位27番目に53人都合884石6斗1升2合9夕で長繁が、順位111番目に8人小半138石5斗で孫市が記載されている。同様の記載が上杉候家士分限簿にも認められ長繁は〆弐拾八人の筆頭に記載され、同じ系列に孫市(孫七郎と記載)が記されている。
上杉家を離れて
文禄3年(1594年)10月28日、豊臣秀吉と諸大名(石田三成はじめ、徳川家康・前田利家・伊達政宗・蒲生氏郷・細川忠興・佐竹義宣・長宗我部元親・結城秀康・古田織部・京極高次ら)を上杉家屋敷に招いた宴の席で秀吉が小田原宇野氏から献上されたと思われる丸薬「外郎《ういろう》」(=透頂香)を服用するための白湯を献ずる役目を仰せつかったのが長繁嫡子の孫市であった。「古代士籍」によれば14~15歳で幼少時より景勝の小姓・近習を務めたという。こういう役目をもらうからには外見もよく将来を期待されていた。しかし、この嫡子は秀吉の眼前で椀を取り落としてしまう。「豊臣の天下に水(湯)を差した。」と非難され、「越後武士にあるまじき無作法」として景勝の怒りを受けた。「父子ともに出仕に及ばす」との処分を受ける。馬廻衆筆頭「宰配頭」長繁とその一門は上杉家を追放され、浪々の身となる(これは秀吉の怒りから長繁を救う景勝の苦肉の策だったとも伝えられる、異説あり)。前出文禄三年定納員数目録には注釈に右後出奔と記載されている。
豊臣秀次の誘いで仕官するも扱いが悪く、ここも自ら豊臣家を去る事となる。
次に剛の者を次々に抱えて行った越前の結城秀康(徳川家康の次男)に1000石御馬廻衆(「結城秀康給帳」)で仕える。尚、孫市(助市と記載)は300石で伏見御供番衆・(大小姓)として仕えている。荻田長繁本人が後に越前松平家の事柄を記した「荻田主馬亮覚書」の中でこの石田三成襲撃事件の仔細や、秀康が三成から感謝のしるしとして秀吉から拝領したという名刀を贈られ「石田正宗」と名づけたという顛末が詳しく記述されている。「荻田主馬亮覚書」のこれ以前の記述が割りとあっさりしていることから(文禄の役時に秀康が肥前名護屋に在陣したことについては触れてもいない)、長繁が秀康に仕えたのはこの頃から(1598~1599年頃?)ではないかと思われる。この仕官に関しては家康が結城家家老の本多富正を呼び出してまで『主馬を小身のまま召抱えるのは秀康の不覚の極み』との思いを語った為に1万石(「源忠直公御家中給帳」1612年(慶長17年)の記録)の高禄で召抱える事になったと言う。
秀康の死後はその嫡子である松平忠直に仕え、大坂冬の陣・夏の陣共に参戦。この戦での功により元和元年(1615年)9月5日2万5千石に加増、それとは別に家康から茶壷・杯・小袖が贈られる。なお、杯(「黒漆沈金葵沢瀉流水文盃」「水葵《みずあおい》」「沢潟《おもだか》」が描かれている)と小袖は後に子孫が川崎市の明長寺に託し現存しており、小袖は葵紋散辻ケ花染小袖として重要文化財に指定されている。
忠直が素行不良により配流となり、忠直の子松平光長が越後高田藩を立藩した際、長繁も光長に仕えて越後に戻る事となり、清崎城代を勤める。戒名:龍光院殿先叟全進大居士。
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