[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

蘆名盛氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。X.Q.JONAH (会話 | 投稿記録) による 2009年11月4日 (水) 13:49個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

{{{このテンプレートは廃止されました。}}}
時代 戦国時代
生誕 大永元年(1521年
死没 天正8年6月17日1580年7月28日
別名 四郎丸(幼名)。平四郎(通称)
止々斎(号)
墓所 会津若松市の宗英寺
官位 修理大夫
氏族 蘆名氏桓武平氏
父母 父:蘆名盛舜
母:金上盛興の娘(盛貞の妹)
兄弟 氏方盛氏
正室伊達稙宗の次女
盛興、養子:盛隆

蘆名 盛氏(あしな もりうじ)は、戦国時代陸奥武将大名蘆名氏の第16代当主。

生涯

家督相続

大永元年(1521年)、第15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。父が死去したのは天文22年(1553年)であるが、盛氏は天文6年(1537年)に伊達氏の娘を正室に迎え、さらに田村隆顕と同盟を結ぶときに誓紙を交わしていることなどから、少なくともこの時点で父から家督を譲られていたものと推測される。

勢力拡大

天文11年(1542年)、山内氏を討ち、天文19年(1550年)からは会津から中通りにかけて勢力を拡大する。その一方で、白河結城氏白河義親の家督相続問題に介入したり、永禄6年(1563年)には二階堂盛義を攻めて降伏させ、さらに二本松義国と同盟するなどして軍事的・政治的に勢力を拡大した。

だが、天文19年(1550年)から侵攻を開始した田村隆顕との戦いは、田村氏を援助する常陸佐竹氏の妨害もあって容易には進まなかった。このため、佐竹氏と敵対する北条氏康武田信玄同盟を結んで佐竹氏と対抗し、天正2年(1574年)に田村隆顕が死去すると、後を継いだ田村清顕を従属させることに成功した。

政治においても永禄3年(1560年)から天正4年(1576年)にかけて6度も徳政令を出し、簗田氏を商人司として登用することで流通支配の強化を図り、これによって莫大な軍資金を得ることが可能になるなど、多数の成功を収めている。このようにして、盛氏は蘆名家の全盛期を築き上げた。

不幸な晩年

永禄4年(1561年)、盛氏は家督を嫡男・蘆名盛興に譲って岩崎城隠居し、剃髪して止々斎と号した。しかし隠居後も政治・軍事の実権を掌握していた。

だが、天正3年(1575年)に盛興が早世してしまう。盛興には嗣子が無く、さらに盛氏にも他に嗣子が無かったため、人質としていた二階堂盛義の子・二階堂盛隆に盛興の正室を娶らせて蘆名盛隆と改名させ、蘆名家の家督を継がせたのである。そのうえで、盛氏は実質的には蘆名家の当主として軍事・政治を統括した。天正6年(1578年)には、上杉謙信死後の混乱(御館の乱)に乗じて、越後に出兵している。

天正8年(1580年)6月17日に死去。享年60。

人物

  • 蘆名家の全盛期は盛氏の死去をもって終焉し、その後は衰退し、盛氏の死からわずか9年後に伊達政宗によって滅ぼされた。
  • 晩年に盛氏が家督に再任したとき、黒川城下において「天寧寺河原の石は大和殿、町の小役は或人がとる」という落書きが記された。これは泉石のための石に目のない蘆名家の重臣・佐瀬種常(大和守)が己の趣味のために町役から税を厳しく取り立てるという蘆名家の施政を風刺したものであるが、これは晩年になって盛氏の実力が衰退していたことを現すものでもある。
  • 盛氏は2度にわたって禁酒令を出している。1度目の理由は不明だが、2度目は嫡男・盛興が酒毒で死去してしまったためであるとされている。

関連項目

先代
蘆名盛舜
蘆名氏当主
第16代:1537? - 1561
次代
蘆名盛興