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小笠原安広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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小笠原 安広[注釈 1]
時代 戦国時代後期
生誕 天文23年(1554年
死没 元亀3年12月22日1573年2月4日[1]
別名 新九郎[1]
戒名 流秀玄順信士[2]
主君 徳川家康
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原安次、母:松平好景の娘[3]
兄弟 安広安勝[注釈 2]広勝牧野康成の妻、小笠原安芸の妻[注釈 3][3]
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小笠原 安広(おがさわら ひろかつ)[注釈 1]は、戦国時代武将徳川家康の家臣。

略歴

信濃守護小笠原氏の傍流で三河国幡豆郡を本領とする小笠原安次の嫡男[5][1]

元亀年間に父安次は隠居し、安広は若くして家督を継承した。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いに出陣するが、この戦いで大叔父の小笠原広元・河内や家臣7人が戦死し、自らも奮戦の後に討死した。享年19[5][1]。家督は父の安次が再登した後、実弟の広勝に継承された[3]

脚注

注釈

  1. ^ a b 実名を広定とする説もある[1]
  2. ^ 七郎右衛門安勝の異説として、名を安正とし、広勝の父・安次の従弟にあたるとするものがある[3]
  3. ^ 寛政重修諸家譜』は小笠原安芸守信元の妻を三浦備後守の娘とする[4]

出典

  1. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』, p. 62.
  2. ^ 『幡豆町誌』, pp. 29–30.
  3. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』, pp. 62–63.
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』, pp. 1–2.
  5. ^ a b 『幡豆町誌』, pp. 28–30.

参考文献

  • 幡豆町誌編集委員会 編『愛知県幡豆町誌』国書刊行会、1981年。 
  • 寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0208-6