[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

枦山智博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2024年6月11日 (火) 16:57; Bcxfubot (会話 | 投稿記録) による版 (外部リンクの修正 https:// -> web.archive.org (www.chunichi.co.jp) (Botによる編集))(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
枦山 智博
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鹿児島県垂水市
生年月日 (1944-05-28) 1944年5月28日(80歳)
選手情報
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導者歴
  • 鹿児島商工高等学校
    樟南高等学校

枦山 智博(はぜやま ともひろ、1944年5月28日 - )は、鹿児島県垂水市出身の元高校野球指導者[1]

概要

[編集]

鹿児島商工高等学校(現・樟南高等学校)時代は投手で主将[1][2]。社会人時代は軟式野球準硬式野球をプレーし、投手で軟式と準硬式で1度ずつ国体に優勝している[1][2]

1972年に母校・鹿児島商工高等学校の事務職員として野球部監督に就任し、甲子園に23回(春7回、夏16回)出場に導いた[2]。最高成績は、樟南高等学校に校名が変更された1994年、福岡真一郎と田村恵のバッテリーを擁して臨んだ第76回全国高等学校野球選手権大会での準優勝[1]鹿児島実業高等学校監督の久保克之(現・名誉監督)と共に鹿児島県の高校野球を長年にわたりリードした[3]

2003年7月1日に、自動車を運転中に事故に遭い、頭部を45針縫う重傷を負うが同年の第85回全国高等学校野球選手権大会ではユニフォーム姿で指揮をとった[4]

2010年7月27日に監督を勇退した。勇退後も後輩の指導者に請われ、鹿児島県内の高校を巡って助言を送っている[1]

主な教え子

[編集]

甲子園での成績

[編集]
  • 春:出場7回・4勝7敗
  • 夏:出場16回・22勝16敗・準優勝1回(1994年)
  • 通算:出場23回・26勝23敗・準優勝1回

脚注

[編集]