林希逸
林 希逸(りん きいつ、1193年 - 1271年[1])は、中国南宋の儒者。主著に三教合一的な『老子鬳齋口義』(ろうしけんさいこうぎ/くぎ)『荘子鬳齋口義』があり、中国よりも江戸時代の日本で盛んに読まれた。
人物
[編集]『宋元学案』巻47や『万姓統譜』に短い伝がある[2]。字は粛翁、号に竹渓、鬳齋[3]。福清(現福建省)の人。端平2年(1235年)進士となり[3]、秘省正字・司農少卿・中書舎人などを務めた[2]。
著作・学問
[編集]『老子』『荘子』『列子』に対する注釈書『老子鬳齋口義』『荘子鬳齋口義』『列子鬳齋口義』(通称『三子口義』[5]、伝本によって題が異なる場合あり)があり、「儒老合一」「仏荘合一」「老荘分離」的な解釈を特徴とする[6][7]。
その他の現存著作に『竹渓膚斎続集』[3]、『考工記解』[3]、枯崖円悟『枯崖漫録』跋[8]、劉翼『心游摘稿』序[9]がある。散佚著作に『易義』『春秋伝』がある[10]。
林艾軒の学統(艾軒学派)に属する[3][11]。艾軒は程門の後裔であり朱熹の知人でもある[12]。艾軒学派は次第に三教合一的になり[13]、特に希逸は大慧宗杲の看話禅にも通じていた[14]。
日本における受容
[編集]江戸時代には、三子口義、なかでも儒老合一的な『老子鬳齋口義』が盛んに読まれた[15]。そのきっかけは林羅山である[15]。元和4年(1618年)、羅山は『老子鬳齋口義』に訓点(道春点)と頭注、序を附して出版した[16]。さらに正保2年(1645年)、羅山は同書にもとづく和文注釈書『老子抄解』を執筆した[17]。
三子口義の前に主流だった注は、『老子』は河上公注、『荘子』は郭象注、『列子』は張湛注だった[15][18]。その中で、惟肖得巌ら中世の禅僧が三子口義を先んじて受容していた[18][19]。羅山が三子口義と出会ったのも、14歳のとき建仁寺で英甫永雄のもと『荘子鬳齋口義』を講読したのがきっかけだった[20]。
三子口義が主流の注になると、佚斎樗山『田舎荘子』などにもその解釈が反映された[21]。一方、陳元贇[22]や貝原益軒[23]、太宰春台ら徂徠学派[24][25]、東条一堂ら折衷学派は[25]、三子口義の解釈を批判した。
脚注
[編集]- ^ 金谷治 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『老子』 - コトバンク
- ^ a b 大野 1997, p. 53f.
- ^ a b c d e 荒木 1981, p. 48.
- ^ “300年前に日本で刊行の漢籍が中国に「逆輸入」 福建省”. www.afpbb.com (2019年9月17日). 2024年6月29日閲覧。
- ^ 秋山陽一郎 (2002年). “老子道徳經解題”. karitsu.org. 2024年6月29日閲覧。
- ^ 武内 1978, p. 227f.
- ^ 大野 1997, p. 20.
- ^ 荒木 1981, p. 51.
- ^ ウィキメディア・コモンズには、『心游摘稿』に関するメディアがあります。
- ^ 大野 1997, p. 147f.
- ^ 大野 1997, p. 55.
- ^ 荒木 1981, p. 48f.
- ^ 荒木 1981, p. 49f.
- ^ 荒木 1981, p. 50;54.
- ^ a b c 大野 1997, p. 16.
- ^ 大野 1997, p. 41.
- ^ 大野 1997, p. 95f.
- ^ a b 荒木 1981, p. 59.
- ^ 武内 1978, p. 231.
- ^ 大野 1997, p. 46f.
- ^ 大野 1997, p. 303f.
- ^ 大野 1997, p. 18.
- ^ 荒木 1981, p. 56.
- ^ 大野 1997, p. 22.
- ^ a b 武内 1978, p. 232-237.
参考文献
[編集]- 荒木見悟「林希逸の立場」『中国哲学論集』第7号、九州大学中国哲学研究会、1981年。 NAID 120002386628 。
- 武内義雄「日本における老荘学」『武内義雄全集 第6巻 諸子篇1』角川書店、1978年(原著1937年) 。
- 大野出『日本の近世と老荘思想』ぺりかん社、1997年。ISBN 9784831507686。