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滝川雄利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
滝川 雄利
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文12年(1543年
死没 慶長15年2月26日1610年3月21日
改名 源浄院主玄、滝川友足、雄利、羽柴雄利、一路(法号)
別名 友忠、一盛、雅利、勝雅、雄親
通称:兵部少輔、三郎兵衛、刑部卿法印
戒名 桂徳院殿前法印三英周傑庵主
墓所 泰寧寺茨城県石岡市根小屋
官位 従五位下下総守
幕府 江戸幕府  御咄衆
主君 木造具政織田信雄豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
常陸片野藩
氏族 木造氏滝川氏羽柴氏
父母 父:木造俊茂?、具康?、具政?、柘植三郎兵衛?
母:木造俊茂または具康の娘?
養父または猶父:滝川一益
兄弟 木造長政
不明(滝川一益の娘?)
正利、龍光院
養女:生駒家長の娘鳥居忠政正室)
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滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名伊勢神戸城主、のち常陸片野藩初代藩主。

出自と名前

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伊勢国司北畠家の庶流木造家の出身とされるが、父母については諸説あって一致を見ない。『寛永諸家系図伝』の木造氏系図[1]では木造具康の娘と柘植三郎兵衛[注釈 1]の、星合氏系図[2]では具康の父である俊茂の娘と柘植三郎兵衛の間の子とし、他方で滝川氏系図[3]では父が具康であるとする。また、『寛政重修諸家譜』の編纂時に滝川家が提出した家譜では、雄利は具政(北畠宗家からの養子)の三男で母は俊茂の娘としていた[4]。さらに、新井白石は『藩翰譜』で雄利は俊茂の三男であると述べている[5][注釈 2]

はじめ出家して源浄院の僧・主玄を称し、のちに還俗して滝川一益から滝川の苗字を与えられ、滝川三郎兵衛を名乗った。は初め友足(ともたり)[7][注釈 3]。頻繁に名を改めたと見られ、別名として一盛(かずもり)、勝雅(かつまさ)も伝わる[8][9]。のちに主君である織田信雄偏諱を受けて雄利(かつとし)または雄親(かつちか)と改名した[4][5][注釈 4]

滝川一益との関係は、『藩翰譜』では単に苗字を授与された[5]、『寛政譜』では一益の甥分とされた[4]とし、養子とされた可能性も指摘される[8]。また、一益の娘婿に迎えられたとする説もある[10]。一益の没落後は豊臣秀吉から羽柴の苗字を与えられて羽柴下総守を称した[9]江戸幕府に仕えて剃髪した晩年も羽柴刑部卿法印と称し、滝川に復姓したのは息子正利の代である[11]

生涯

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天文12年(1543年)伊勢国一志郡木造で木造氏一門の庶子として生まれ、父母の命により若くして出家して源浄院[注釈 5]に住持した[4][5][12]

永禄12年(1569年)、織田信長北畠家攻略戦の時に、信長の家臣滝川一益調略を受け、柘植三郎左衛門尉と共に当主の木造具政を織田方に寝返らせ、織田軍の侵攻を手引きしてその勝利に貢献した[13]。このとき、一益は雄利(源浄院)の才能を見出して家中に引き取り、還俗させて滝川兵部少輔と名乗らせ、織田信長に仕えさせた[4][13]

信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(織田信雄)の家老となり、通称を三郎兵衛に改める[13]天正4年(1576年11月25日、長野左京亮・軽野左京進と共に軍勢を率い、北畠具教の居城・三瀬御所を密かに包囲して具教を討ち果たした(三瀬の変[13][注釈 6]。同年、信長によって信雄の補佐役に付けられていた織田氏一門の津田一安が失脚して誅殺され、雄利ら木造氏一門が信雄補佐の主導権を握った[7][注釈 7]

天正6年(1578年)、信雄の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修繕するが伊賀の国侍衆の反撃に遭い伊勢国へ敗走した(第一次天正伊賀の乱[注釈 8]。天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱の際には主力とともに近江側から侵攻する信雄に代わり、伊勢衆の大将として加太口からの侵攻を受け持った[15]。伊賀国の制圧後、3郡を得た[16]信雄によって雄利は伊賀国守護に任命され、丸山城に入って伊賀国を支配した[17]。また、雄利が平楽寺の跡に築いた砦が上野城の起源になったとされる[18]

天正10年(1582年)、本能寺の変後に伊勢で蜂起して敗れた北畠具親が伊賀に落ちのびて伊賀国一揆の再起をはかると、「大剛之者也」と評される活躍ぶりでこれを鎮圧した[19]。天正11年(1583年)、羽柴秀吉によって織田信孝柴田勝家が滅ぼされ(賤ヶ岳の戦い)、信孝・勝家に与した滝川一益も没落したが、雄利は尾張国と伊勢国北部・中部を得て織田家当主の座に着いた信雄の右腕という立場になり[7]、織田家宿老として台頭した秀吉から羽柴の苗字を授与されて「羽柴三郎兵衛尉」を称した[9]

天正12年(1584年)、信雄が秀吉との関係を悪化させ、秀吉に通じたとして津川義冬ら3家老を殺した際に、雄利も秀吉の誘いを受けていたが拒絶した[8]。信雄が徳川家康と同盟して秀吉と争った小牧・長久手の戦いでは、雄利は伊賀を放棄して南伊勢に撤退し[注釈 9]、津川の居城であった松ヶ島城日置大膳亮と共に入った[5]。雄利はここで家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対し40日にわたって篭城し、奮戦及ばずに開城して尾張に退いたのちも、北伊勢の浜田城に入って再び篭城した[13]。信雄が秀吉と単独講和すると、秀吉側の講和の使者として家康の元へ派遣された[4]

豊臣政権の下では尾張と伊勢北部を領有する大名となった信雄の重臣として北伊勢の運営を任され[13]、天正13年(1585年)に生駒親正の居城であった神戸城が信雄に譲渡されると同城を居城とした[5]。同年頃に作成された『織田信雄分限帳』では3万8370貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている[8]

天正14年(1586年)、秀吉の意を受けて家康の元に派遣され、家康と秀吉の妹朝日姫との婚儀を成立させて、輿入れに同行した[4]。その後は九州平定に参加し、長束正家小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられた[20]。同年末には下総守に叙任され、羽柴下総守と称する[9]

天正18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し、陣中に北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している[21]。7月13日、織田信雄が改易されるが、雄利はそのまま秀吉直臣に取り立てられ、伊勢神戸2万石を領した[9][注釈 10]

文禄の役では肥前名護屋城に参陣した。文禄3年(1594年)には伏見城普請に加わって7,000石、文禄4年(1595年)には、さらに伊勢員弁郡5,000石を加増された[8]。同年には秀次事件に連座したが[注釈 11]、秀吉の御咄衆となって所領を保った[23][注釈 12]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、軍勢400名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城・神戸城に籠城した。このため戦後に改易されたが、後に徳川家康に召し出されて常陸国片野2万石の所領を与えられ、徳川秀忠の御咄衆となった[4]。慶長13年(1608年)頃までに再び出家して一路と号し、羽柴刑部卿法印と称する[9]

慶長10年(1605年)、この年に亡くなった娘を悼み、京都金戒光明寺塔頭龍光院を建立した[25]

慶長15年(1610年)、死去。片野藩2万石は子の滝川正利が継いだが、病弱で嗣子がなく、寛永2年(1625年)に所領を幕府に返上して片野藩は2代で終わった[11]

なお、滝川家の名跡は正利の娘婿滝川利貞が継承して子孫は4,000石の旗本として幕末まで続き、また1,200石を領した分家から幕末の大目付滝川具挙が出ていて[26]、子孫は本家・分家とも明治以降も存続している[27]

脚注

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注釈

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  1. ^ 柘植三郎兵衛は北畠氏の家臣とされるが未詳。よく似た名前の人物として雄利とともに木造具政を織田方に寝返らせた柘植三郎左衛門尉がいる。
  2. ^ 系図纂要』の刊本も『藩翰譜』と同様に雄利を木造俊茂の子としている[6]
  3. ^ 友忠(ともただ)とも読まれる。なお、『寛政重修諸家譜』は初名を雅利(まさとし)とする[4]
  4. ^ 小川雄によれば、初名「友足」の友は北畠氏・木造氏の通字である具(とも)と同訓、「雄利」の利は雄利の父と言われる俊茂ら木造家歴代の名に用いられた俊(とし)と同訓で、名前によって木造一族であることを表現したものと考えられる[7]
  5. ^ 源浄院は『勢州軍記』では源浄寺、『藩翰譜』では現常院と表記される。木造にあった寺院で、木造氏の菩提所であったともされる[12]。『藩翰譜』の刊本の欄外注は北畠氏菩提寺の浄眼寺と同一視して曹洞宗とする[5]
  6. ^ 『勢州軍記』によれば、雄利は策をもって具教の近習を寝返らせ、太刀を抜けないように細工しておいたという[13]
  7. ^ 『勢州軍記』は津田一安誅殺を雄利と柘植三郎左衛門尉の讒言によるものとする[13]
  8. ^ 『伊乱記』によると、比自岐(ひじき)あたりで伊賀衆と合戦になり、雄利の軍勢は谷底へ追い詰められたが、雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ伊賀衆に攻めあぐねさせ、ついに夜間のうちに抜け出して無事に松ヶ島城に帰還した。雄利の兵も戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ、という[14]
  9. ^ 『藩翰譜』によれば、雄利は秀吉に人質を差し出しており、脇坂安治に預けられていたが、雄利は計略で安治を欺いて人質を取り返した。安治はわずかな手勢を率いて雄利を追撃し、伊賀の国人を扇動して大軍に見せかけたため、雄利は伊賀を捨てて伊勢に逃亡したという[5]
  10. ^ 『寛政重修諸家譜』の滝川氏家譜では雄利は織田信雄改易後に秀吉に属して伊勢国神戸城2万石を与えられたとするが、同書の水野氏家譜では三河国刈谷城水野忠重が天正18年(1590年)に織田信雄改易後の伊勢国神戸城4万石に移され、文禄3年(1594年)に旧領刈谷に戻されたとしており[22]、矛盾している。水野氏が神戸に一時的に移封されたとすれば、滝川雄利のその間の所領とがどこにあったかは不詳。
  11. ^ 秀次事件の連座により一時失領したとする資料もある[23]
  12. ^ 小瀬甫庵の『太閤記』によれば、慶長3年(1598年)の秀吉の死に際して御咄衆として遺物金の分与を受け、15両を拝領した[24]

出典

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  1. ^ 『寛永諸家系図伝』第13、続群書類従完成会、1990年、212頁.
  2. ^ 『寛永諸家系図伝』第13、 続群書類従完成会、1990年、236頁.
  3. ^ 『寛永諸家系図伝』第12、 続群書類従完成会、1988年、 224頁.
  4. ^ a b c d e f g h i 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、424頁.
  5. ^ a b c d e f g h 『藩翰譜 : 12巻 巻七』吉川半七、1896年、44丁表.
  6. ^ 『系図纂要』第9冊上、名著出版、1991年、164頁.
  7. ^ a b c d 柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝6 東海編』戎光祥出版、2024、342-345頁.
  8. ^ a b c d e 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、265-266頁.
  9. ^ a b c d e f 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、150-153頁.
  10. ^ 阿部猛・ 西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年、476頁.
  11. ^ a b 「大猷院殿御実紀」巻21. 寛永2年11月7日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社, 1904, 271頁.
  12. ^ a b 「勢州兵乱記」『史籍集覧』第25冊、1902年、 589頁.
  13. ^ a b c d e f g h 「勢州軍記」上・下『続群書類従 第21輯ノ上 合戦部』続群書類従完成会, 1923, 1-72頁.
  14. ^ 『伊乱記』摘翠書院、1897、巻2、3丁裏-4丁表.
  15. ^ 桑田忠親校注『信長公記』新人物往来社、 1997年、339頁.
  16. ^ 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、114頁.
  17. ^ 「諸国廃城考」『日本城郭史料集』人物往来社、1968年、34頁.
  18. ^ 文化財調査会編『日本の名城』人物往来社、1959年、140頁.
  19. ^ 「勢州兵乱記」『史籍集覧』第25冊、1902年、 595頁.
  20. ^ 「宗湛日記」『福岡県史資料 第5輯』福岡県、1935、192頁.
  21. ^ 「天正記」『戦国史料叢書 第1』人物往来社、1965年、144頁.
  22. ^ 『寛政重脩諸家譜. 第2輯』國民圖書、1923年、825頁.
  23. ^ a b 小和田哲男「滝川雄利」『朝日日本歴史人物事典』コトバンク
  24. ^ 「太閤記」『史籍集覧 第6冊 第6冊 通記類』近藤出版部、1919年、470頁.
  25. ^ 増補京都叢書刊行会編『亰都叢書 第16 増補』増補京都叢書刊行会、1935年、438頁.
  26. ^ 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻、東洋書林、1997年、1611頁.
  27. ^ 森潤三郎「瀧川南谷傳(五)」『日本及日本人』第387号、政教社、1940年8月、60-65頁.

参考文献

[編集]
  • 寛政重修諸家譜』巻466
  • 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年、465頁。 
  • 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書』(新版)大日本人名辞書刊行会、1926年、1514頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879535/37 
  • 高柳光寿、松平年一『戦国人名辞典』(増補版)吉川弘文館、1973年、145頁。 
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、265-266頁。 

関連項目

[編集]
  • 丸山城 – 三重県伊賀市。織田政権期の居城。
  • 滝川氏城 – 三重県名張市。伊賀支配のため築城した。
  • 神戸城 – 三重県鈴鹿市。豊臣政権期の居城。
  • 片野城 – 茨城県石岡市。晩年の居城。
  • 龍光院 – 京都市左京区。娘の菩提を弔うために建立した。
  • 泰寧寺 – 茨城県石岡市。葬地。子孫滝川利済が立てた供養碑が現存している。
  • 桂徳院 – 東京都練馬区。息子滝川正利が雄利の菩提を弔うために建立した。