田中はな
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たなか はな 田中 はな | |
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左から、田中角栄の母のフメ、田中角栄、一人おいて、田中はな。1962年7月18日撮影。 | |
生誕 |
坂本 はな 1910年8月18日 日本 東京都 |
死没 |
1995年9月13日(85歳没) 日本 |
出身校 | 大妻高等女学校卒業 |
配偶者 | 田中角栄(夫) |
子供 |
田中正法(長男) 田中眞紀子(長女) |
親 | 坂本木平 |
田中 はな(たなか はな、1910年〈明治43年〉8月18日[1] - 1995年〈平成7年〉9月13日[2])は、日本の64・65代内閣総理大臣である田中角栄の妻。東京都出身。
経歴
[編集]1910年(明治43年)に東京で生まれた[3]。土木建築請負業・坂本木平の長女[4]。父の坂本木平は内務省出入りの土建会社の坂本組を営んでいた[3]。母は可年。はなが14歳のときに中耳炎の手術を受け、それが原因で、晩年まで右耳が不自由であり、公の場に出ない理由であったと言われている[5]。
大妻高等女学校を卒業後、23歳で桜井武と結婚[3]。長女の静子をもうけたが、1935年(昭和10年)に離婚[3]。その後、1942年(昭和17年)に田中角栄と結婚。1943年(昭和18年)に長男の正法を出産するも、5歳で病没する。1944年(昭和19年)には長女の眞紀子を出産[5]。また、はなの連れ子であった静子は認知され、池田勇人の甥と結婚。
角栄は1947年(昭和22年)の衆議院議員選挙に当選。1972年(昭和47年)7月7日から1974年(昭和49年)12月9日まで内閣総理大臣に就任するも、はなは表舞台に顔を出すことは殆どなく、ファーストレディとしてのつとめは娘の眞紀子が行った[5]。
1965年(昭和40年)の第26回優駿牝馬競走に優勝したベロナの名義上の馬主(実際の所有は夫の角栄)でもあった。
エピソード
[編集]- 角栄との結婚の際、三つの誓いを約束させた。『出て行けと言わぬこと』、『足げにしないこと』、『将来、あなたが二重橋を渡る日があったら私を同伴すること』[6]。
- 角栄は料亭での酒席が済むと、すぐに目白の自宅へ帰宅し、はな夫人手製のチャーハンを平らげてから眠りについた[7]。
親族
[編集]田中角右衛門 | 捨吉 | 角次 | 角栄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正法 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
はな | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
眞紀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雄一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鈴木佳衛 | 鈴木直人 | 直紀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真奈子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真美子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『財界家系譜大観 第6版』(現代名士家系譜刊行会、1984年)p.492
- ^ 『現代物故者事典1994~1996』(日外アソシエーツ、1997年)p.356
- ^ a b c d 『永田町おんな太閤記 総理夫人とっておきの話』72 - 73頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月16日閲覧。
- ^ 『日本人事名鑑 昭和9年版 上卷』サ73頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月9日閲覧。
- ^ a b c 「総理大臣の妻たち」(小林吉弥、日本文芸社、1995年)
- ^ 私の履歴書、田中角栄
- ^ 早坂茂三著『オヤジとわたし 頂点をきわめた男の物語―田中角栄との23年』、第七章 『懐石料理より奥さん手製のチャーハンを』集英社 1987年
参考文献
[編集]- 聯合通信社編『日本人事名鑑 昭和9年版 上卷』聯合通信社、1933年。
- 小林吉弥『永田町おんな太閤記 総理夫人とっておきの話』現代書林、1983年。
先代 佐藤寛子 |
内閣総理大臣夫人 1972年7月7日 - 1974年12月9日 |
次代 三木睦子 |