[go: nahoru, domu]

コンテンツにスキップ

笘篠誠治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
笘篠 誠治
メットライフドームにて(2019年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府茨木市
生年月日 (1964-06-22) 1964年6月22日(60歳)
身長
体重
180 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手内野手
プロ入り 1982年 ドラフト2位
初出場 1983年6月22日
最終出場 1997年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

笘篠 誠治(とましの せいじ、1964年6月22日 - )は、大阪府茨木市出身の元プロ野球選手外野手内野手)、プロ野球コーチ、野球解説者。現役時代は西武ライオンズに在籍した。

経歴

[編集]

プロ入り前

[編集]

上宮高校では1年生の秋から三塁手のレギュラーとなる。エース柚木文雄(同志社大)を擁し1981年春の選抜に出場。準決勝に進むが印旛高佐藤文男に抑えられ敗退[1]。同年の春季近畿大会でも決勝に進むが、エース西川佳明吉村禎章若井基安を打の主軸とするPL学園に敗れる。その後は府予選で敗れ、甲子園出場は叶わなかった。3年生時は主将としてチームを率いる。高校の1学年下に光山英和、2学年下に江本晃一、実弟の笘篠賢治がいた。

1982年のドラフト西鉄ライオンズから2位指名されて入団。ドラフト前、上宮高校野球部監督のツテで明治大学野球部のセレクションを受け入部が内定していたが、高校時代に12球団中唯一スカウトとの接触が無かった西武の指名に大変驚いたという[2]

現役時代

[編集]

1983年の前半戦終盤に早くも一軍昇格するも、秋山幸二をはじめとしたトッププレイヤーとの実力差を痛感、一ヶ月半後に降格を命じられた時は心から安堵したという。しかし早くから一軍でプレイする中で、主力選手も打球判断が1テンポ遅れる時がある事を見抜き、守備や走塁を磨けば出場機会を得られると考えるようになった[3]

1985年はアメリカマイナー1A級カリフォルニアリーグサンノゼ・ビーズに野球留学した。試合中の走塁で相手守備と交錯し、顔面複雑骨折の重傷を負う壮絶な体験をしたが[4]、次々と解雇される同僚を見て野球に対する姿勢を改めるなど、収穫のある留学となった[5]

1986年森祗晶監督就任を転機に自身の活路を「守備と走塁」に定め、練習も打撃はそこそこに守備走塁に費やし、技術力を高めた[5]。この年には一軍に定着。三塁手、指名打者として26試合に先発出場。

1987年は開幕直前に辻発彦が故障、二塁手の定位置を獲得する。10月に辻が復帰するまで良くその代役をつとめ、リーグ優勝に貢献した。

1988年には辻の復帰によって出場機会が減少するが、外野手一塁手も兼ね、俊足・好守のユーティリティプレイヤーとして起用される。

1990年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、最終第4戦に左翼手として起用され2安打。5回には逆転勝ちのきっかけとなる内野安打を放ちチーム日本一に貢献した。

1992年は打率.295を記録。試合出場数も5年ぶりに3桁に乗せた。

1993年は開幕から二塁手として起用され、5月からは外野手として55試合に先発出場。年間試合出場数は現役最多の112試合だった。

1994年からは外野手登録となり、主に左翼手として40試合に先発。その後は出番が減る。

1995年東尾修が監督に就任すると出番が激減、試合出場数は前年の約半分の57試合となった[6]

1996年オフにFA宣言。阪神が獲得を検討しているという裏情報もあったが、東尾修との直談判でユーティリティプレーヤーとしての必要性を説かれ、最終的に宣言残留[6]

1997年、球団から戦力外通告コーチ就任を打診され、この年限りで現役を引退した。笘篠自身は通算1000試合出場への意欲もあったが、家族との相談を経てコーチ業にも魅力を感じたという[6]現役通算(15年)884試合、打率.256、18本塁打、121打点、90盗塁、122犠打

引退後

[編集]
2013年4月11日

1998年から西武の二軍2000年から2007年まで一軍守備走塁コーチを務めた。2007年10月7日に球団側から来季は契約しないことを通告された[7]。契約解除通知の同月、西武時代の同僚であり当時中日バッテリーチーフコーチを勤めていた森繁和を通じ、落合博満監督から中日コーチ就任の打診を受け、快諾した[8]

2011年8月14日

2008年からは中日ドラゴンズの一軍外野守備走塁コーチに就任した。ベースコーチ(2008年から2011年途中まで三塁、同年途中からは一塁)も務めた。2011年、シーズン途中の10月6日に来季の契約を結ばないことを通達された[9]。落合監督の契約解除決定に伴い落合色の一掃を狙った球団の性急な行動であったが、笘篠はかえってチームの結束が固まったと述懐している[10]。その後かねてより入閣を誘われていた、西武時代の同僚であり当時ホークス監督であった秋山幸二に連絡を取り、来季のコーチ就任を内定させた[10]

2012年からは福岡ソフトバンクホークス二軍外野守備走塁コーチを務めた[11]

2013年からは一軍外野守備走塁コーチを務め、前任の井出竜也にかわり三塁ベースコーチャーを務めた[12]

2014年、11月5日に退団が発表され[13]、11月10日に西武時代同僚だった大久保博元が監督を務める[14]東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍外野守備走塁コーチに就任することが発表された[15]

2016年より東京ヤクルトスワローズの二軍外野守備走塁コーチに就任[16]

2017年限りで退団。

2018年DAZN野球解説者に就任。

2019年から楽天の1軍外野守備走塁コーチに復帰することが発表された。背番号は79[17]

2020年11月8日に球団側から来季のコーチ契約を行わないことを通告された[18]

2021年より埼玉県内の工務店に勤務、営業本部に在籍[19]

選手としての特徴・人物

[編集]

西武現役時代、チームが打ちあぐねていた近鉄投手・野茂英雄を攻略出来れば出場機会が増えると考え投球映像を徹底分析、ストレートフォークの投球時にわずかに見える小指に変化がある事を発見、投球内容を予測し攻略に繋げた。癖を見抜いている事を相手バッテリーに悟らせない為、予測していたフォークを時に故意に空振りする念の入れようだった。笘篠と野茂の好相性に注目した、当時打撃コーチだった谷沢健一の懇願に負け、チームミーティングで上述の攻略法を公開したが、難解な方法であった為他の打者は実行出来ず、結局この野茂攻略法は笘篠の専売特許となった[21]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1983 西武 5 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1986 56 93 79 19 22 2 0 2 30 3 4 2 10 0 4 0 0 13 1 .278 .313 .380 .693
1987 106 313 277 31 61 7 4 7 97 22 14 5 21 1 14 0 0 49 6 .220 .257 .350 .607
1988 56 83 71 17 20 3 1 2 31 10 3 2 7 0 5 0 0 9 2 .282 .329 .437 .766
1989 60 89 81 20 15 4 0 0 19 1 3 2 5 0 3 1 0 9 0 .185 .241 .235 .476
1990 90 172 140 26 38 5 3 0 49 7 11 1 19 0 12 0 1 23 3 .271 .333 .350 .683
1991 81 170 148 23 41 3 2 1 51 16 6 6 9 1 12 1 0 20 3 .277 .329 .345 .674
1992 107 194 166 26 49 6 1 3 66 19 16 4 11 1 14 0 2 21 5 .295 .355 .398 .753
1993 112 277 236 37 61 8 2 2 79 21 8 3 17 3 20 0 1 28 8 .258 .315 .335 .650
1994 101 214 184 28 49 7 2 1 63 10 11 1 12 1 17 0 0 25 6 .266 .327 .342 .669
1995 57 72 58 14 13 2 1 0 17 6 6 1 6 2 6 0 0 8 2 .224 .288 .293 .581
1996 29 37 30 4 9 2 0 0 11 5 4 1 3 2 0 0 2 2 2 .300 .324 .367 .690
1997 24 24 20 6 3 0 0 0 3 1 4 1 2 0 2 0 0 2 0 .150 .227 .150 .377
通算:13年 884 1739 1491 252 381 49 16 18 516 121 90 29 122 11 109 2 6 209 38 .256 .307 .346 .653

記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 40 (1983年 - 1986年)
  • 4 (1987年 - 1997年)
  • 79 (1998年 - 2007年、2016年 - 2017年、2019年 - 2020年)
  • 73 (2008年 - 2011年)
  • 77 (2012年 - 2014年)
  • 71 (2015年)

脚注

[編集]
  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 昼休みに突然「校長室に行ってくれ」 進学を覆した指名…“条件付き”だった笘篠誠治の西武入り」Full-Count、2024年6月26日。2024年7月13日閲覧
  3. ^ 西武入団も「まず失敗した」 18歳で1軍抜擢も“苦痛”の日々…笘篠誠治が願い続けた登録抹消」Full-Count、2024年6月27日。2024年7月13日閲覧
  4. ^ 笘篠誠治の運命を変えた「米国に行ってこい」 留学先で事故…顔面直撃で「骨が粉々」」Full-Count、2024年7月1日。2024年7月13日閲覧
  5. ^ a b 張り紙で知る“戦力外”…去る同僚見て「日本は恵まれている」 米留学で消えた笘篠誠治氏の甘い考え」Full-Count、2024年7月2日。2024年7月13日閲覧
  6. ^ a b c FA残留も「使う気ないですよね?」 翌年戦力外…妻の後押し、笘篠誠治の人生変えた「脱げ」」Full-Count、2024年7月5日。2024年7月13日閲覧
  7. ^ 西武、7コーチが退団へ、2007年10月7日、スポーツニッポン
  8. ^ 契約解除→妻と毎日喧嘩「電話をしろ」 中日入閣の笘篠誠治氏、まさかの人物からラブコール」Full-Count、2024年7月5日。2024年7月13日閲覧
  9. ^ 首位浮上その日に…中日、9コーチと契約せず、2011年10月6日
  10. ^ a b 笘篠誠治もつけられた“バツ印”「みんな終わり」 中日黄金期の終焉も…団結高めた解雇通告」Full-Count、2024年7月7日。2024年7月13日閲覧
  11. ^ 新入団のお知らせ”. 福岡ソフトバンクホークス (2011年12月22日). 2011年12月22日閲覧。
  12. ^ 2013年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス (2012年10月29日). 2012年10月29日閲覧。
  13. ^ コーチの退団について 福岡ソフトバンクホークス公式サイト2014年11月5日配信
  14. ^ 【楽天】1軍コーチにソフトB・笘篠コーチをリストアップ、2014年10月31日、スポーツ報知
  15. ^ 2015年シーズンの1軍・2軍コーチングスタッフに関して 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト2014年11月10日配信
  16. ^ ヤクルト 来季2軍外野守備走塁コーチの笘篠氏と契約締結 スポーツニッポン2015年10月28日配信
  17. ^ 楽天がコーチ人事を発表 1軍打撃コーチに小谷野氏 - 日刊スポーツ、2018年10月16日、同日閲覧
  18. ^ “楽天、笘篠誠治1軍外野守備走塁コーチの退任発表 19年から2シーズン担当”. Full-Count. (2020年11月8日). https://full-count.jp/2020/11/08/post965721/ 2021年7月15日閲覧。 
  19. ^ 楽天“移籍”で愕然…ホークスとの差「簡単には勝てん」 笘篠誠治の戸惑い「全然違いました」」Full-Count、2024年7月8日。2024年7月13日閲覧
  20. ^ a b c 楽天・笘篠Cの娘、姫歌ひな乃退団”. デイリースポーツ online. 神戸新聞社 (2015年10月2日). 2023年6月5日閲覧。
  21. ^ 世界でただ一人、発見した野茂英雄のクセ 同僚は理解不能…笘篠誠治の驚愕の眼力」Full-Count、2024年7月4日。2024年7月13日閲覧

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]