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草内村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
くさうちむら
草内村
廃止日 1951年4月1日
廃止理由 編入合併
田辺町、普賢寺村三山木村草内村大住村田辺町
現在の自治体 京田辺市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
綴喜郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 1,948
国勢調査1950年
隣接自治体 綴喜郡田辺町、三山木村井手町多賀村青谷村久世郡富野荘村
草内村役場
所在地 京都府綴喜郡草内村
座標 北緯34度48分45秒 東経135度47分09秒 / 北緯34.812448度 東経135.785863度 / 34.812448; 135.785863座標: 北緯34度48分45秒 東経135度47分09秒 / 北緯34.812448度 東経135.785863度 / 34.812448; 135.785863
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草内村(くさうちむら)は、京都府綴喜郡にあった。現在の京田辺市の南東部、木津川の左岸にあたる。

地理

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歴史

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  • 草内の名前は草の中から地蔵が見つかったことに由来する。
  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、草内村・東村・飯岡村の区域をもって発足。
  • 1951年昭和26年)4月1日 - 田辺町に編入。同日草内村廃止。

草内の渡し

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1582年(大正10年)6月

草内集落はかつての条里集落で、古くから草内の渡しと呼ばれた木津川の渡しがあり、河内・山城・近江が結ばれる、古来の東西交通路の要衝であった。

1582年(天正10)6月2日未明に起こった本能寺の変の際、徳川家康と穴山信君は泉州堺を遊覧中であった。同日昼頃には急報がもたらされていたとされる家康は、茶屋四郎次郎清延の案内で岡崎への脱出を開始し、3日この地で木津川を渡り、伊賀超えを経て無事岡崎へ逃れた。

一方信君は猜疑心から家康とは別行動を取っており、1日遅れてこの地に辿り着いたが、一揆勢の手にかかり主従12名は落命した。一説に普賢寺谷で信君の従者が道案内人を殺し、その太刀の銀製のツバを奪った事から、土着民が蜂起し、木津川を渡る前に殺害されたともいわれる。

  • 指定府道枚方水口線

参考文献

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関連項目

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