藤原忠経
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時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 長和3年(1014年)正月 |
改名 | 薬勢(幼名)→忠経 |
官位 | 従四位下、左馬頭 |
主君 | 一条天皇→三条天皇 |
氏族 | 藤原北家中関白家 |
父母 | 父:藤原道頼、母:藤原永頼の娘 |
兄弟 | 忠経、大納言の君、忠任、明覚 |
子 | 覚尋 |
藤原 忠経(ふじわら の ただつね)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、権大納言・藤原道頼の子。官位は従四位下・左馬頭。
経歴
[編集]童名は薬勢[1]。父・道頼が長徳元年(995年)に没していたことから、大叔父の藤原道長の後見を受け長保2年12月(1001年1月)に元服する。翌長保3年(1001年)従五位下・侍従に叙任されると、右兵衛権佐・左近衛少将といった武官や五位蔵人を経て、寛弘7年(1010年)に従四位下に叙される。三条朝に入ると、長和2年(1013年)左近衛少将を止められて左馬頭に転じるが、翌長和3年(1014年)正月に卒去。
寛弘3年(1006年)と長和2年(1013年)の二度に亘り、賀茂祭の勅使を務めた。
官歴
[編集]注記のないものは『権記』による。
- 長保2年(1000年) 12月13日:元服
- 時期不詳:叙爵(従五位下)
- 長保3年(1001年) 3月18日:侍従
- 長保4年(1002年) 4月17日:見兵衛佐[2](右兵衛権佐か)
- 寛弘元年(1004年) 正月5日:従五位上。3月28日:昇殿[3]
- 寛弘2年(1005年) 3月6日:見右兵衛権佐[4]。6月19日:左近衛少将[3]
- 寛弘6年(1009年) 正月10日:五位蔵人
- 寛弘7年(1010年) 正月7日:従四位下[5]。正月9日:還昇
- 長和2年(1013年) 6月23日:左馬頭[4][6]。
- 長和3年(1014年) 正月:卒去[7]
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年