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イワン・コズロフスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イワン・セミョーノヴィチ・コズロフスキー
基本情報
生誕 (1900-03-24) 1900年3月24日
出身地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 キエフ県(現 ウクライナキーウ州マリャニフカ英語版
死没 (1993-12-21) 1993年12月21日(93歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 テノール

イワン・コズロフスキー(イワン・セミョーノヴィチ・コズロフスキー、ロシア語: Иван Семёнович Козловский, ウクライナ語: Іван Семенович Козловський, ラテン文字化転写例: Ivan Kozlovsky、1900年3月24日 - 1993年12月21日)は、ロシア帝国キエフ県(現在のウクライナキーウ州)生まれで、ソビエト連邦で活躍した声楽家テノール)。

経歴

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1900年、ロシア帝国キエフ県ヴァシリキフ地区英語版近郊のマリャニフカ英語版生まれ。7歳からキーウの聖ミハイール黄金ドーム修道院で歌う。そこには宗教音楽作曲家として有名なアレクサンドル・コシツ (Alexander Koshetz) が所属していた。間もなくしてキーウのトロイツキー人民会堂(後のニコライ・サドフ劇場)で歌い始める。 1917年から1920年、高等音楽-演劇大学(キエフ国立演劇・映画・テレビ大学, Kyiv National I. K. Karpenko-Kary Theatre, Cinema and Television University)の声楽クラスでエレーナ・ムラヴィヨヴァの下で学ぶ。

1920~1923年、赤軍軍務でポルタヴァに行き、1922年からポルタヴァ音楽-演劇移動劇場に参加する。この劇場で初めて主要な役がつき、グノーの『ファウスト』を歌う。1924年には、ハリコフのロシア国立オペラ(現ハリコフオペラ・バレエ劇場)に所属。1925年から1926年、スヴェルドロフスク国立オペラ劇場(現エカテリンブルクオペラ・バレエ劇場)のソリスト。

1926年にボリショイ劇場に呼ばれ、ジュゼッペ・ヴェルディ椿姫』のアルフレード役でデビュー。その後も様々な役を歌い、1930年代末にはヨシフ・スターリンが好んだ歌手の一人となった。同じくテノール歌手のセルゲイ・レメシェフと共に、2人は1930年代から1950年代のボリショイ劇場の人気歌手であった。1954年、人気絶頂期にボリショイ劇場を永久に去る。この理由は現在まで不明である[1]

1993年、モスクワで死去。墓はモスクワのノヴォデヴィチ墓地にある。

ウクライナ音楽

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コズロフスキーは早くからウクライナ音楽の支持者で、ミコラ・アルカス(Аркас Микола Миколайович)、ミコラ・リセンコなどの音楽を歌っている。彼は1940年にはタラス・シェフチェンコの作品に基づいたアルカスのオペラ『カテリーナ』(1980年)の初演、1954年にはイヴァン・コトリャレーウシキー戯曲に基づいたリセンコのオペラ『ポルターヴァのナタールカ』(Наталка Полтавка)の初演を指揮している。また、ウクライナの民謡ロマンスアリアも録音して、20のレコードにしている。

音楽

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録音だけでなく映画の中でも歌っている(モスフィルムボリス・ゴドゥノフなど)。

受賞

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脚注

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  1. ^ 歌手イワン・コズロフスキー生まれる (Russia Beyond、2013年3月24日)

外部リンク

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