ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー
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ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー Ghazi-ud-Din Haidar Shah | |
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アワド王 アワド藩王 | |
ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー | |
在位 | 1814年 - 1827年 |
戴冠式 | 1814年7月12日 |
別号 |
ナワーブ パードシャー |
出生 |
1769年 |
死去 |
1814年10月19日 ラクナウ |
埋葬 | ラクナウ、シャー・ナジャフ・イマームバーラー |
子女 | ナーシルッディーン・ハイダル・シャー |
王朝 | ニーシャープーリー朝 |
父親 | サアーダト・アリー・ハーン2世 |
宗教 | イスラーム教(シーア派) |
ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー(ヒンディー語:ग़ाज़िउद्दीन हैदर शाह, ウルドゥー語: غازی الدیں حیدر شاہ, Ghazi ud-Din Haidar Shah, 1769年 - 1827年10月19日)は、北インド、アワド藩王国の君主 (在位:1814年 - 1827年)。ムガル帝国からの正式独立前はガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーン(Ghazi ud-Din Haidar Khan)を名乗っていた。
生涯
[編集]1814年7月11日、父であるアワド藩王サアーダト・アリー・ハーン2世が死亡したことにより、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーンが太守位を継承した[1]。
1818年10月19日、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーンは「アワド王」(Padshah-e Awadh)を宣し、自らの名で貨幣を鋳造するようになった[1]。ここからアワドの君主は「太守」ではなく「王」として扱われ、王を意味する「シャー」を名乗ったが、太守を意味する「ナワーブ」の称号も併用した。
また、1819年10月8日、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・ハーンはムガル帝国の皇帝アクバル2世に対し、正式に独立を宣言した[2]。これにより、アワドはアワド王国となったわけだが、当然ながらイギリスに従属する藩王国であることに変わりはなく、ラクナウにはイギリスの駐在官が滞在していた。
1827年10月19日、ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーは死亡し、息子のナーシルッディーン・ハイダル・シャーが藩王位を継承した[1]。
ギャラリー
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ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーの彫像
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ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャーの行列(ラクナウ)