ダイシャン (ハダナラ氏)
名称表記 | |
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満文 | ᡩᠠᡳᡧᠠᠨ |
転写 | daišan |
漢文 |
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生歿即位 | |
出生年 | 不詳(隆慶から万暦初頭?) |
即位年 | 万暦11(1583)?/万暦16(1588)? |
死歿年 | 万暦19(1591) |
血筋(主要人物) | |
祖父 | ワン(初代ハダ国主) |
大叔母 | 温姐(メンゲブル母) |
父 | フルガン(二代ハダ国主) |
叔父 | カングル |
叔父 | メンゲブル(四代ハダ国主) |
妹 | アミン・ジェジェ |
妹夫 | ヌルハチ |
ダイシャンは女真族ハダナラ氏、二代ハダ国主・フルガンの子で、三代国主。
父のフルガンの死後、国主の座をめぐってハダは三つ巴となり、一時は明朝の介入でダイシャンが実権を握ったが、イェヘの策略により暗殺された。
ヌルハチの子のダイシャン(礼親王)とは同名別人。
略歴
[編集]萬死後の政局混乱
[編集]万暦10(1582)年、初代ハダ国主で祖父の萬(王台)が死去すると、二代国主に即位した父・フルガンと叔父・カングル(萬の落胤)の間で権力闘争が起り、敗れたカングルがイェヘに亡命した。やがてフルガンが即位から一年足らずで病逝すると、政局混乱の最中、ダイシャンが17歳で三代国主に即位した。
イェヘの復讐一、チンギヤヌとヤンギヌ
[編集]万暦11(1583)年7月、ハダへの復讐を企てるイェヘのチンギヤヌ、ヤンギヌ兄弟がハダの叛臣・ベフチ(白虎赤、フルガン統治期に背離)と結託し、更にホルチン部ウンガダイ[1]、ノムトゥ[2]を糾合した騎兵10,000を引率れ、ハダのバギ(把吉)部落を襲撃、掠奪した。この時、ダイシャンらの勢力を案じた明朝が介入し、イェヘ側を弾圧するも功を奏さず、同年12月に至り再侵攻。ダイシャンとメンゲブルは騎兵2,000で迎撃したが阻止できず[3]、ダイシャン所有の荘園1、末叔・メンゲブルの荘園10、二叔サムハトゥ(三馬兎)の荘園10がそれぞれイェヘ軍の劫火に見舞われた[4][5]。
万暦12(1584)年、イェヘの度重なる襲撃に悩まされたハダは遼東総兵の李成梁に賄賂を贈り[6]、チンギヤヌ、ヤンギヌ兄弟が明朝の「市圏計」(報奨すると欺いて貢市に誘き出した上での集中砲火による袋叩き)にかかって殺害された。その際にハダの叛臣・ベフチと、チンギヤヌとヤンギヌそれぞれの子を含む多くの首級が挙がり[7]、イェヘは数年間を臥薪嘗胆して堪えねばならなくなった。明朝はダイシャンを塔山前衛都督に任命し、メンゲブルに龍虎将軍を承襲させることで両者間の確執解消を図ったが、しかしイェヘの新国主のブジャイとナリムブルは、祖父・チュクンゲと父の仇をとろうと、しつこくハダ内政に干渉し、カングルのダイシャン討伐を支持した。久しくして、メンゲブルは一転、母・温姐、カングル、イェヘとの共謀に走った[8]。
イェヘの復讐二、ブジャイとナリムブル
[編集]万暦15(1587)年、ヤンギヌの子のナリムブルがモンゴルのウンガダイ[1][2]の騎兵10,000余を率いてハダのバタイ(把太、把泰とも)部落を急襲。この頃、カングルがフルガン死歿の報せをきいて亡命先のイェヘから帰還。カングルは更に父・萬の妾・温姐(チンギヤヌ兄弟の妹)を娶ってイェヘとのパイプを強化し、ダイシャンとの対決姿勢を露わにした。ここにハダはダイシャン、メンゲブル、カングルの三つ巴となり、再び権力闘争による国力衰頽を招くこととなった[9]。同年旧暦6月、カングルはダイシャン属下の阿台卜花を煽って叛乱を起させ、家財、家畜を強奪させた。メンゲブルは母の温姐を通じてイェヘおよびカングルと繋がり、策応してダイシャンの妻・哈爾屯を拉致し殺害した。明朝は援軍を派遣してダイシャンの包囲を解くと、温姐とカングルを捕縛したが、やがて温姐のみ釈放した。メンゲブルはナリムブルに操られるままにダイシャンを攻撃し、自らの属部18を焼き払うと、温姐を連れてイェヘへ投じた。混乱を収拾できないまま、明朝はメンゲブルの勲爵(龍虎将軍)を剥奪した。
万暦16(1588)年2月、河西で大飢饉が起り、ダイシャンの要請に応えて明朝より粟100斛が贈られた。同年3月、明の李成梁はイェヘ国主のブジャイとメンゲブル両酋の征討を決定し、13日に威遠堡を出発、城郭を包囲し、両酋が投降したため撤兵、帰還した[10]。明朝は、ダイシャンが執政するには未熟で、大衆を従わせるには別の有力者が必要であること、また、ダイシャンとカングルを和解させることでイェヘを牽制することができることに鑑み、カングルの釈放を決定した。同年4月[11]、カングル釈放。釈放後のカングルはダイシャンとの関係を修復し、明朝に忠義を尽くした。ダイシャンは妹のアミン・ジェジェを連れてヌルハチを訪い、自ら出迎えたヌルハチは、酒宴を催してアミン・ジェジェとの祝言を挙げた[12]。ダイシャンが内政を明朝に頼り、外交で建州と結びついたことで、東域は明朝の思惑通り勢力均衡が維持された。その後、数箇月してカングル死去。更に同年旧暦7月、温姐が死去[13]。
暗殺
[編集]万暦16(1588)年、イェヘは相変わらずメンゲブルを唆してダイシャン討滅を謀った[14]。明朝はブジャイ、ナリムブル、メンゲブル、ダイシャンらに対し、恨みを忘れ四者揃って入貢するよう命じ、この後、ブジャイがダイシャンに娘との婚姻を許した[15]。しかし、この頃のダイシャンは酒に溺れ、気に入らない者があるとすぐ殺したため、大衆は徐々に離叛しはじめていた。
万暦19(1591)年旧暦正月、ダイシャンはブジャイの娘をもらうためにイェヘを訪れ、序でに姉(ナリムブルの妻)に会った。しかしハダへの帰路で、イェヘが秘かに差し向けた擺思哈により射殺された。ナリムブルらは罪を擺思哈[16]に着せると、捕らえて(明朝に)献上した。メンゲブルはダイシャン暗殺をきくとハダへ帰還し、四代国主に即位した[17][18][19][20]。
総督侍郎・郝傑疏は「歹商(=ダイシャン)に那(=ナリムブル)、卜(ブジャイ)と夙怨有り,今中道に射死に,情(ありさま)甚だ隱(なぞ)にして,第(いきさつ)深く求め難く,擺夷(=擺思哈)を梟(さら)し法(のり)を示さむことを請ふ」と対処を求めた[21]。ダイシャンの子・騷台住らは政治をするには幼なすぎたため、ダイシャンの属部および貢勅137道は暫時メンゲブルに託されることとなった[22]。
系図
[編集]出典
[編集]- ^ a b 原文は「恍惚太」だが、これはモンゴル語のウンガダイの音訳。
- ^ a b “(1) シベという族名の語源について”. ジュシェン-マンジュ史箚記二題. 立命館東洋史学. pp. 6-7. "福余衛(兀良哈 uriyangqan 三衛の一衛)首領の恍惚太 ungγadai と土門児 tümei が、万暦一五、六年頃、東虜の以児鄧 yeldeng・煖兎 nomtu・伯要児 bayar(内ハルハのジャルト・オンギラト両部の酋帥)……恍惚太・土門児……、ヌルハチと同時代のこの両名は、実は福余衛ならぬノン=ホルチン部領袖のウンガダイとトゥメイに他ならなかった。"
- ^ 维基百科「岱善」には「叶赫国主杨吉砮、清佳砮率部进攻哈达,虽然岱善与孟格布禄率两千骑兵将其击退,」とあり、『清史稿』223「萬」の「迎戰而敗」に拠ったのかも知れないが、この「敗」は目的語をとって「敗之」などとすれば「敗(や)ぶる」の意味で、目的語をとらない場合は「敗(ま)ける」の意味であり、恐らく現代語訳ミス。実際、同じく『清史稿』223の「楊吉砮」の項目には「襲敗孟格布祿」とある。
- ^ “萬”. 清史稿. 223. 清史館 . "而清佳砮、楊吉砮兄弟謀攻萬子孫報仇,十一年七月,挾煖兔、恍惚太等萬騎來攻。明總督侍郎周詠念岱善弱,孟格布祿少,請加敕部諸酋,神宗許之。十二月,楊吉砮等復挾蒙古科爾沁貝勒瓮阿岱等萬騎來攻,孟格布祿及岱善以二千騎迎戰而敗。自是兵屢至,恣焚掠不已。"
- ^ “楊吉砮”. 清史稿. 223. 清史館 . "萬曆十一年,楊吉砮弟兄率白虎赤,益以煖兔、恍惚太所部萬騎,襲敗孟格布祿,……;益借猛骨太、那木塞兵,焚躪孟格布祿所部室廬、田稼殆盡。明分巡副使任天祚使齎布帛及鐵釜,犒楊吉砮兄弟,諭罷兵。楊吉砮兄弟言:「必得敕書盡轄孟格布祿等然後已。」既,復焚孟格布祿及其仲兄所分莊各十,岱善莊一,脅所屬百餘人去。既,又以恍惚太二千騎馳廣順關,攻下沙大亮寨,俘三百人,挾兵邀貢敕。"
- ^ 滿洲實錄. 1. 不詳. "lii ceng liyan(李成梁)gebungge(と名付くる)amban(大人), hadai niyalmai(哈達の人々の)šusihiyeme(唆かさんと)benehe(賷しける)boro dobihi(靑黄毛狐の皮), sahaliyan seke(黑き貂), aisin menggun(金銀)be(を)alime(受けて)gaifi(取り), …… wan lii han(萬曆汗)i(の)juwan juwe(十二)ci(目)niowanggiyan bonio (甲申)aniya(の年), cinggiyanu(淸佳努), yangginu(揚吉努), juwe(二人の)beile(貝勒)dahame(從ひ)genehe(行きける)ilan tanggū(三百の)cooha(兵)be(を)guwan yei miyoo (關爺廟)i(の)dolo(内に)horifi(閉ぢて)gemu(皆)waha(殺しぬ),"
- ^ “海西女直攷”. 東夷考略. 不詳 . "亡何,二奴擁精騎三千餘箚鎮北關請賞,以三百騎前詣圈門,頗橫恣。……伏盡起,遂前斬逞加奴、仰加奴及白虎赤,逞加奴子兀孫孛羅,仰加奴子哈兒哈麻殲焉,共得級三百十一。"
- ^ “扈伦大事年表”. 扈伦研究. 不詳. p. 32. "万历十二年(1584)哈达孟格布录在叶赫纳林布录兄弟支持下,与侄歹商争汗位继承权。"
- ^ “海西女直攷”. 東夷考略. 不詳 . "那林孛羅引西虜恍惚太萬余騎,急攻把太寨。我兵往援,圍解。而是時王臺孽子康古陸,向奔清佳奴者,乘虎兒罕歿即來歸。已,並妻其父妾溫姐,分海西業,與猛骨孛羅、歹商鼎立。至是以仇虎兒罕故,甘心歹商,為北關內應。"
- ^ 维基百科「岱善」には『乌拉国简史』(趙東昇, 宋占栄 共著, 中共永吉県委史弁公室, 1992) p.149からの引用として「1588年,明朝分兵两路攻入叶赫、哈达,布寨与纳林布禄乞和,康古鲁被活捉,……」としているが、カングル(康古鲁)が捕縛されたのは万暦15(1587)年。
- ^ 戊子年四月
- ^ “大清太祖承天廣運聖德神功肇紀立極仁孝武皇帝實錄”. 清實錄. 1. 不詳 . "戊子年四月,有哈達國萬汗孫女阿敏姐姐胡里罕勒女也,其兄戴鄯送妹與太祖爲妃。親迎之,(中略)戴鄯同妹至,太祖設宴成禮,遂納之。"
- ^ “扈爾干 子 岱善”. 清史稿. 223. 清史館 . "康古魯死,孟格布祿謀盡室徙依葉赫,度溫姐不從,微告布寨、納林布祿以兵至。孟格布祿縱火燔其居,趣溫姐行,溫姐不可,强扶持上馬,鬱鬱不自得,七月亦死。"
- ^ “萬”. 清史稿. 223. 清史館 . "十六年……孟格布祿……趣溫姐行,溫姐不可,强扶持上馬,……七月亦死。……布寨、納林布祿誘孟格布祿圖岱善如故。"
- ^ “海西考”. 東夷考略. 不詳 . "是後卜寨亦以女許歹商那林孛羅妻則歹商姊也而歹商酗酒好殺眾稍貳十九年正月往卜寨受室因過眎姊中途那卜二酋陰令部夷擺思哈射商殪乃歸罪擺白二夷執擺夷以獻"
- ^ 『滿洲實錄』巻2にみえる「拜斯漢」と同一人物か。(「○時葉赫國主納林布祿遣部下伊勒當阿拜斯漢二人來謂……」)
- ^ 「ハダへ帰る道中」(東夷考略-女直考) とも、「姉に会いにゆく道中」(東夷考略-海西考) とも読めるが、ここでは前者をとった。
- ^ “女直考”. 東夷考略. 不詳 . "……而歹商酗酒好殺衆不附十九年卜寨等陰令部夷賊商中道南關……"
- ^ “海西考”. 東夷考略. 不詳 . "是後卜寨亦以女許歹商那林孛羅妻則歹商姊也而歹商酗酒好殺眾稍貳十九年正月往卜寨受室因過眎姊中途那卜二酋陰令部夷擺思哈射商殪乃歸罪擺白二夷執擺夷以獻"
- ^ “扈伦大事年表”. 扈伦研究. 不詳. p. 32. "万历十九年(1591)叶赫诱杀哈达贝勒歹商,孟格布录入主哈达。歹商求婚叶赫布寨之女。"
- ^ “海西考”. 東海考略. 不詳 . "總督侍郎郝傑疏謂歹商與那卜有夙怨今射死中道情甚隱第難深求請梟擺夷示法"
- ^ “海西考”. 東夷考略. 不詳 . "歹商子騷台住等竝幼依外家應加厚恤所遺部夷并勑百三十七道暫屬猛酋俟成立議給"
- ^ “海西考”. 東夷考略. 不詳 . "那林孛羅妻則歹商姊也"
- ^ アミン・ジェジェ:ᠠᠮᡳᠨ ᠵᡝᠵᡝ, amin jeje, 阿敏哲哲 (滿洲實錄-2)、阿敏姐姐 (太祖武皇帝實錄-1)。
参照文献・史料
[編集]書籍
[編集]- 茅瑞徵『東夷考略』(明) (漢文)
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻223, 清史館 (1928年) (漢文)
- 編者不詳『大清歷朝實錄 (清實錄)』巻1-2「滿洲實錄」(1781年) (満洲語・漢文・モンゴル語)
- 趙東昇『扈伦研究』(1989年) (中国語)
- 安双成『满汉大辞典』遼寧民族出版社 (1993)
- 胡增益 (主編)『新满汉大词典』新疆人民出版社 (1994)
Webページ
[編集]- 東北大学「Manchu Dic/満洲語辞典」*満洲語の検索エンジンとして。