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粟屋 元親(あわや もとちか)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。毛利氏の五奉行の一人で、毛利十八将の一人。祖父は粟屋元秀、父は粟屋元忠

 
粟屋元親
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄4年(1561年
改名 赤法師(幼名)→元親
別名 通称:弥三郎、弥六
官位 縫殿允右京亮備前守(受領名)
主君 毛利元就
氏族 清和源氏義光流安田氏粟屋氏
父母 父:粟屋元忠粟屋元秀の子)
元著元信元如、女(赤川元房室)
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生涯

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毛利氏家臣・粟屋元忠の子として生まれ、毛利元就に仕える。

享禄5年(1532年7月13日付の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では、22番目に「粟屋弥六元親」と署名している[注釈 1]

天文9年(1540年)に内紛を起こしていた平賀氏頭崎城攻撃や、同年秋から始まる吉田郡山城の戦いにも参戦して戦功を挙げた。

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、15番目に「粟屋右京亮元親」と署名している[注釈 2][1]。また、井上氏粛清後の新たな体制として元就が五奉行制を定めた際に、毛利隆元の側近として内政面にも優れていた元親も赤川元保国司元相桂元忠児玉就忠と共にその一人となった。

天文24年(1555年)の厳島の戦いの後の防長経略でもその武勇を発揮した。

弘治3年(1557年12月2日防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、13番目に「粟屋右京亮」と署名する[2]

永禄4年(1561年)に死去。家督は次男の元信が継ぎ、五奉行職も元信が引き継いだ。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  2. ^ 『毛利家文書』第402号、弘治3年(1557年)12月2日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社1986年
  • 萩藩閥閲録

関連作品

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