ごあいさつ
現代の名工の技、御蕎麦にたくして
お客さまには、平素格別のご愛顧を賜り心より厚くお礼申し上げます。
当店は、明治元年、初代徳兵衛が名代・信州月の田毎より屋号をとり、「本家田毎」として京都三条の地に創業いたしました。その後、そば料理に特化した専門店として、現在にいたります。
2013年、「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。当店でも、外国から観光で訪れたお客様の来店が年々増加しており、日本の食文化への注目・関心が高まっていることを感じます。
私どもは、長年守られてきた伝統の味に敬意を払いつつ、新しい変化を与え、皆さまに喜んでいただける味の創造に邁進してまいります。 私には、来店されたすべてのお客様の表情を、店主が一人でも目配りできる規模の「手打ちそば専門店」を作りたいという希望がございます。 五感をもって観察し、お客様のわずかな変化をきめ細かに感じたいので、限られた席数の店になるでしょう。皆さまが、本格的な手打ちそばを、楽しく気軽に味わっていただける場をどんどん増やしていきたいです。
また、当店の食材は国産であることにこだわっております。 これは、「ほんまもんのおいしさ」を皆さまに味わっていただくとともに、「安心」してお料理を楽しんでいただきたいという想いからのこだわりです。 おいしい食べ物を口にした時の、心を満たす幸せな気持ちや、自然に浮かぶ笑顔をお届けすることをめざして、これからも妥協を許さず、そばの「おいしさ」と「安心」に心を配っていく所存です。
今後とも、お客様の「食の感動や心からの笑顔」を私たちの喜びとし、努力を重ねていきたいと思います。皆様とお逢いできることを楽しみにしております。
創業〜明治の始まりとともに〜
明治元年、初代徳兵衛によって「本家田毎」は京都三条の地に開店いたしました。現在も同じ場所、新京極通と三条通の丁字路正面に本店がございます。
京都きっての歓楽街である新京極通は、明治五年、明治天皇の東京遷都などにより意気消沈した京都の民衆を活気づけるため、寺院がたち並ぶ寺町を切り開いてつくられました。
現在も多くの観光客や買い物客で賑わいある通りです。また、江戸時代に東海道・西の起点として栄えた三条通は、明治時代から大正時代にかけ金融の街として発展をとげました。今も残る石や赤レンガの近代建築は、その時代の名残なのでしょう。「歓楽街」と「金融街」が合流する場という、絶好の「地の利」を得た「田毎」の店頭は、荷馬車や人力車で常に賑わい、そのようすから「車うどん」と異名をとるほどの繁盛ぶりだったようです。「田毎」という屋号の由来ですが、信州更科の「田毎の月」と呼ばれる光景と関係があります。月が出て、山間にある小さな棚田の一つひとつに、月の影が映っているようすを「田毎の月」といいます。この名所を、松尾芭蕉や小林一茶など多くの俳人が歌句の題材としています。また、江戸時代の浮世絵師、安藤広重は名所図会に「更科田毎の月」を描きました。初代徳兵衛もまた、信州で見た「田毎の月」の美しさに深く感銘を受けました。信州は昔ながらのそばの産地ということもあり、そばの味わいを田毎の月の姿にこめて、屋号を「田毎」といたしました。
そば専門店として
現在「本家田毎」は、そばの専門店としてさまざまなそば料理を提供しています。実は、五代目店主が店を継ぐまでは、「そばもあるが、他の麺類や食べ物もいろいろある。」食堂のような大衆的な店でした。時代背景もあり、その頃の田毎も皆さまに大変なご愛顧をいただいておりました。
五代目店主は、店を継ぐ決心をした際、「そばといえば、やっぱり東京だろう。」と考え、東京のそば店へ修行に行きました。修業先では、自分が今まで味わったことがない「そば」の味に出会い、カルチャーショックを受けました。「京都のお客様にも、自分が驚きを感じたあの『そば』を味わってもらいたい。」そこで、修行を終えるとさっそく田毎の改革に取りかかりました。
まず、材料を吟味し、メニューの数も思い切って絞り、一つひとつの内容に手をかけるようになりました。田毎は、そばの専門店として新たにスタートしたのです。昭和40年代のことでした。その後、店舗の大改装にも着手。店の奥にあった広い庭を小さく造園しなおして店を広げ、ゆったりと奥庭を一望できる客席を増設しました。五代目に続いて、六代目店主も東京の名店へ修行へ行き、手打ちそばの技術をしっかりと身につけました。関東のそば(麺)に関西のだし(つゆ)、お互いのいい部分を融合させた、豊かで新しいそばの味。それこそが、今の「田毎の味」ではないかと自負しています。田毎のそばは、日々進化しています。