[go: nahoru, domu]

遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

連続de豆作り

2023年05月30日 | ものぐさ有機農業

ソラマメ、エンドウ、スナップエンドウの怒涛の収穫も終わりました。

次の豆類を用意せねばなりません。特に、エンドウ用に苦心して作った高棚の活用が急務です(^^;

そこで、購入したのがこの2種のツル豆。

いずれも在来種、しかも美濃が原産らしい。

年をとるにしたがい、栽培する野菜はだんだん在来種が増えて来ました。大根は方領、ほうれん草は次郎丸、サトイモは地元でずっと作られてきた〇〇・・・種芋が何代も受け継がれてきて、誰も名を知りません(^^;

地元の気候風土に合うものが在来種ですから、農薬に頼らずとも病気にかかりにくく作りやすいし、味もグッドです。

左側の豆、ササゲ(こちらでは、なまってササギ)は、元々、円空の故郷、岐阜羽島で作られていました。戦前から岐阜近辺では最もポピュラーな夏の豆です。最大の特徴は、30~40㎝ほどもある細長い形。種が16粒もあるから十六ササゲの名が付いたと言われています。これが、蔓にずらっとぶら下がって実るのですから壮観です。しかも大変美味。

もう一つの豆、桑の木豆は、これまで聞いたことも食べたこともありません。岐阜県山県市(明智光秀伝説の残る場所)で細々と作られ続けてきたらしい。山間の地の隠れ野菜なのです。台風が来ても大丈夫なように、桑の木に沿わせて育てたのでこの名がついたとか。熱すると鮮やかな緑になり、柔らかい、と種袋の説明書きにあります。さらに調べてみると、十二分に実った豆を鞘ごと収穫し、乾かして冬まで保存した物を、鞘が柔らかくなるまで何時間も煮て食べる・・・・昔の山村生活が目に浮かんでくるようですね。これは作らずにはいられませんね(^.^)

早速、種をまきました。左がササゲ、右は桑の木豆。

無事、植え付け終了。手前がササゲ、真中より向こうが桑の木豆。右側は、キュウリの棚です。支柱間を紐で結びつけ、両端の支柱を二本の紐で地面に張って固定したものぐさ棚です。これで、高さ2m、長さ10mの棚を無理やり作成。キュウリはツル豆類ほど繁らないので、栽培にはこれで十分です。しかし、長さ方向(南北)には滅法強いですが、東西の力には弱い。台風が来ないことを祈るのみです(^.^)

ところで、豆類は連作を避けよ、とどの農業手引きにも書いてあります。毎年、同じ場所に豆を作るなという教えです、ところが今回は、同じ場所で、しかも間髪をおかずに豆類をそだてるのですから、連作ならぬ連続作です(^^; これまでも、エンドウ=>ササギの連続作を毎年行ってきました。でも、連続作障害はみられません。それに、今年はまれに見る豊作。エンドウやソラマメの根には、これまで見たこともないほど大粒の根粒菌がびっしりと付いていました(写真撮り忘れ(^^;)。まだ土の中には根粒菌がどっさりいるはず。どんどん豆類を育てない手はありません・・・「めには、めを」ではなく、「まめには、まめを」ですね(^.^)

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末新聞『内外新報』4.幕府側の記事

2023年05月28日 | 高札

今回は、幕末に発行された新聞『内外新報』の幕府側の動向を伝える記事です。

   〇四月二日御触書
此度一橋殿田安殿御連名之御歎訴状一橋殿御持参東海道官軍大総督宮御方江御参上且若年寄大目付御目付共同様為歎願罷出候処 上様御恭順御謹慎之御誠意相顕レ候二付而者寛大之 思召を以 御沙汰之品御先鋒総督より 勅錠を以可被 仰出候段被 仰渡候 ニ付而は何レも此上兼而之御趣意厚ク相守弥相慎候可致候

(読み下し)
此の度、一橋殿、田安殿、御連名の御歎訴状、一橋殿御持参し、東海道官軍大総督宮御方へ御参上、且、若年寄、大目付御目付共、同様歎願をなし、罷り出候処、上様御恭順、御謹慎の御誠意相顕レ候に付きては、寛大の思召を以って、御沙汰の品、御先鋒総督より勅錠を以って仰せ出らるべく候段、仰せ渡せられ候ニ付ては、何レも此の上かねての御趣意厚ク相守り、いや相慎み候致すべく候

鳥羽伏見の戦いで幕府側が敗退した後、江戸へ帰った慶喜は、新政府側へ恭順の意を度々顕し、上野寛永寺で謹慎していました。四月二日付けのこの御触書は、新政府側が江戸城へ入る直前に出されたものです。御三卿のうち、一橋茂栄、田安亀之助が連名の嘆願書を東海道官軍大総督へ提出した事を述べています。田安は幼少であったので、実際には、一橋茂栄が中心となり、事を運びました。一橋茂栄は、美濃高須藩の出身、高須四兄弟として知られる俊英の一人です。兄は、尾張藩主となった徳川慶勝、二人の弟は、最後の会津藩主、松平容保と最後の桑名藩主、松平定敬です。いち早く新政府側についた長兄、徳川慶勝に対し、松平容保と松平定敬は、幕府方の強硬派となります。一方、慶喜に代わって一橋家を継いだ一橋茂栄は、徳川家存続のために東奔西走します。そして、慶応四年三月と四月の二度、静岡の大総督宮(有栖川宮熾仁親王)府に赴き、嘆願書をわたすのです。高須四兄弟の中では一番地味な茂栄ですが、歴史の裏舞台で活躍しました。
この御触書は、誰の名前で出されたのか、不明です。しかし、「一橋殿田安殿御連名之御歎訴状」や「上様御恭順御謹慎之御誠意」とありますから、幕府側が出した触書であることは間違いないと思います。

続いて、『内外新報』第二號(慶応四年四月十三日発行)には、こんな記事が載っています(最初の2記事)。

内外新報第二號   慶應四年四月十三日

    〇四月五日御触書
此度被 仰出候勅錠之趣御拝承被成候二付上様来
ル十日御巌途水戸表江被為入候此段向々江可被相
達候

(読み下し)
此の度、仰せ出され候勅錠の趣、御拝承なされ候に付き、上様来る十日御厳途水戸表へ入りなされ候、此の段向々へ相達し候

慶応四年四月四日、東海道鎮撫総督・橋本実梁が勅使として江戸城に入城し、田安家の徳川慶頼に対し、慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を命じる朝命を申し渡しました。これを受けて、四月十日に、慶喜は水戸へ帰り、謹慎することになったわけです。実際には、慶喜の体調不良(下痢)により、水戸行きは翌日、十一日となりました。しかし、水戸は政情不安定であったため、慶喜は七月十日に駿府へ移りました。そして、静かに余生をすごすことになります。

 

   
昨四日 勅錠之趣二付 御城内御櫓並御多門且ッ
御殿諸役所早々取片付来ル九日御目付江引渡可被申候
但し御門番並御廣處勤番之向ハ来ル十一日明番迄
    可被相結候事
右之趣向々江早々相達候

(読み下し)
昨四日、勅錠趣に付き、御城内御櫓並びに御多門且つ御殿諸役所、早々取り片づけ、来る九日、御目付へ引き渡し申さるべく候
  但し、御門番ならびに御廣處勤番の向きは、来る十一日明番まで相結ばるべく候事
右の趣向々へ早々相達し候  

先にみたように、四月四日に東海道鎮撫総督が勅使として江戸城に入城し、旧幕府側に江戸城開城などの和平条件を提示しました。そして、慶喜が水戸へ下った四月十一日、東征軍が江戸城に入城し、実質的な江戸城開城がなされました。この時、江戸城の管理を任されたのが、徳川義勝の尾張藩だったのです。そして、新政府軍が各門を固めることになりました。この触書は、その時のスケジュールを述べたものです。やはり、幕府側が出した御触書です。

このように、『内外新報』は、幕末激動期の出来事を、新政府側、幕府側のどちらにも偏ることなく、リアルタイムで人々に伝える役目を果たしていたと言えるでしょう。

さらに、『内外新報』第一號には、こんな記事も載っています。

 〇館内へ張出シ候寫

今般 王政御一新ニ付 朝廷之御條理ヲ追ひ外國御交際
之儀被 仰出諸事於 朝廷直ニ御取扱被為成萬國之公法ヲ
以テ條約御履行被為在候ニ付ハ全國之人民 叡慮ヲ奉
戴シ心得違無之様被 仰付候自今以後猥ニ外國人ヲ殺
害シ或ハ不作法之所業等致シ候者ハ朝廷ニ悖リ
御國難ヲ醸成シ候而已ならす一旦 御交際被 仰出候各國
へ對し 皇國之 御威信も不相立次第甚以不届至極
之儀ニ付其罪之軽重ニ随ヒ士分之者と雖削士籍至當
之典刑可被処候条銘々奉 朝命〇暴行之所業無様
今度被 仰出候事
  三月

「館内に張り出された写し」とあります。「館内」とは、どこを指すのでしょうか。2、3の語が異なってはいますが、これは、慶応四年三月十五日に出された五榜の掲示第四札「万国公法尊守」そのものです。「王政御一新につき・・・・」とはいえ、これは新政府側が出した民衆向けの触書きに間違いありません。それを、幕府側の新聞『内外新報』が載せているのです。

このように、幕末、戊辰戦争時のさ中に、幕府側の海軍会社によって発行された『内外新報』は、新政府側、幕府側、いずれの動向も別け隔てなく掲載していました。しかし、江戸を制圧した新政府側にとって、それでは気にくわなかったのでしょう。慶応四年六月には発行禁止となり、短い使命を終えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末新聞『内外新報』3. 甲鉄船ストンウォール号

2023年05月26日 | 高札

戊辰戦争のさ中、江戸で佐幕派が創刊した新聞『内外新報第一號』の続きです。先回は、江戸城無血開城が決まった後、新政府側の海軍先鋒隊が、江戸の入り口、品川宿に着陣した様子を伝える記事を紹介しました。今回は、その次の記事です。

       右側、3行。

   〇
慶應三卯年七月廿六日小笠原賢蔵岩田平作装鉄船へ
乗込亜米利加「コスポート」海軍所を出帆し同四辰年
四月二日横濱江着帆す

「慶應三年七月二十六日に、小笠原賢蔵、岩田平作が装鉄船に乗り込み、アメリカ・コスポート海軍所を出帆して、慶應四年四月二日に横浜へ着いた」という簡単な記事です。

しかし、この記事は、その後の戊辰戦争、さらには明治海軍の動向を左右する極めて大きな意味をもっていたのです。
戊辰戦争で次第に劣勢になっていった幕府側ですが、海軍力には早くから力を入れていました。慶應二年、幕府がオランダに発注していた軍艦、開陽丸が完成し、翌年四月には横浜に到着して、榎本武揚が軍艦役となりました。
海軍増強の必要性を痛感していた徳川幕府は、さらなる軍艦を調達、補充するため、慶應三年一月、勘定吟味役、小野友五郎を代表とする使節団を米国に送りました(福沢諭吉も通訳として参加)。アメリカ各地を巡る中、主要な部分を厚い鉄板で覆った装鉄船「ストーンウォール号」を見つけ、購入契約を結びます。そして、後に甲鉄船とよばれたこの船に、幕府海軍方軍艦組一等、小笠原賢蔵、岩田平作の二人が乗り込み、日本へ帰国するのです(今回の記事)。


その後、甲鉄船は数奇な運命を辿ることになります。日本へ到着後、戊辰戦争の行方を眺めていたアメリカは、契約を保留としました。そして、新政府側が優勢とみるや、ストーンウォール号を新政府側に売り渡してしまうのです。劣勢になった旧幕府側は、榎本武揚を中心に開陽丸の海軍力に賭け、函館を拠点として新たな局面の展開を試みます。しかし、頼みの開陽丸は函館湾に停泊中、嵐に合い。敢え無く沈没してしまいます。新政府側は、甲鉄船を送り、攻勢をかけます。榎本武揚は、かつてオランダ留学中にこの甲鉄船の事を知り、以来強い関心を持ち続けてきました。そして開陽丸を失って低下した海軍力を立て直すため、宮古湾で、甲鉄船の奪取を敢行しました(土方歳三も参加、宮古海戦)。しかし、甲鉄船からガトリング砲による反撃を受け、奪取は失敗に終わります。そして、新政府軍の箱館総攻撃の際、甲鉄船は箱館湾から榎本らの拠点、五稜郭を砲撃しました。その威力はすさまじく、旧幕府勢力は、函館での戦いに敗れ、戊辰戦争は終了したのです。
その後、甲鉄船は佐賀の乱や西南戦争に参加し、「東(あずま)」と名をかえて、明治海軍の主力艦となりました。

当時、『内外新報第一號』の記事を読んで、甲鉄船・ストンウォール号のその後の運命を誰が予測できたでしょうか。
『内外新報』は短期間で発行を終えますが、幕末の混沌とした日本を記録した貴重な資料と言えると思います。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末新聞『内外新報』2. 新政府側の動向記事

2023年05月24日 | 高札

幕末期に江戸で創刊された新聞『内外新報』第一號から、いくつか記事を紹介します。まず、この新聞が発刊された最初の記事です。

木版印刷が鮮明でなく、また、資料の破れ、欠損もあるので、他の資料(奈良女子大学学術情報センター)のデジタルデータを参照しながら何とか解読したいと思います。

内外新報第一号號    慶應四辰年四月十日

   〇
昨廿七日大原前侍従殿品川宿御着途中行列調練太
鼓五白地菊御紋海軍先鋒ハ書記省之御旗二流シ笹
龍朦紋付小旗本御馬上御年齢四十歳位烏帽子
麾を腰二差鼡地絵子小袖紺地金襴袴御着用御跡
一 肥前薩州筑後兵士筒袖袴釼付筒相携隊長付
添前後人数二百人程是並隊相立御通行同日申下刻
御本陣江御着


(読み下し)
昨日二十七日、大原前侍従殿品川宿二御着。途中行列、調練太鼓五、白地菊御紋、海軍先鋒ハ書記省ノ御旗二流シ笹、龍朦紋付小旗本、御馬上二ハ御年齢四十歳位、烏帽子麾ヲ腰二差シ、鼡地絵子小袖紺地金襴袴御着用二ナリ、御跡ハ、一、肥前薩州筑後兵士、筒袖袴釼付筒相携シ、隊長付添、前後人数二百人程是並隊相立シ、御通行、同日申下刻御本陣へ御着。

 

一 雑裳北川南城真田刈谷百十両人指揮致、品川宿両三日御宿陣有之、同所御退陣日限江戸表御陣営御場所等儀ハ御治定之上可被仰出趣二丙未相分不申候
一 御本陣玄関紫笹龍御紋付幕紋白地同断幕ヲ張大原
前侍従殿陣営ハ高札有之御宿札相掛ケ有之官軍之
家人数上下二百人程近還旅篭屋宿陣二相成罷在候
三家共玉薬之外ハ兵器類手當相見不申候 大砲等茂
相見へ不申候
右之通御座候以上
三月

(読み下し)
一、雑裳、北川、南城、真田、刈谷、百十両人ヲ指揮致シ、品川宿両三日御宿陣之有リ、同所御退陣日限江戸表御陣営御場所等ノ儀ハ、御治定ノ上仰セ出サレルベキ趣二、丙未相分申サズ候。
一、御本陣玄関、紫笹龍御紋付幕紋白地同断幕ヲ張リ、大原前侍従殿陣営ハ高札之有リ、御宿札相掛ケ之有リ、官軍ノ家人数上下二百人程、近還旅篭屋宿陣二相成リ罷リ在リ候。三家共玉薬ノ外ハ兵器類手當相見エ申サズ候、大砲等モ相見へ申サズ候。
右之通御座候以上。
三月

 

今回の記事は、慶應四年三月二十七日、新政府側の先陣が、品川宿に到着した様子を記したものです。
前侍従、大原重実(旧、綾小路俊実)は、慶應四年三月二十七日、海軍先鋒副総督として、戊辰戦争の最前線、江戸入口の品川宿へ着陣します。
当時、三月十五日の江戸城総攻撃は回避されたとはいえ、東征軍が江戸へ進軍してくるにあたり、江戸界隈ではいろいろな噂がながれ、市中は大混乱におちいっていました。その中で、先鋒総督橋本実梁は、まず、横浜に三月二十三日に横浜に到着した大原前侍従を品川に着陣させることにしたのです。
『内外新報』の冒頭を飾る今回の記事は、大原侍従が、薩摩、肥前、筑後の兵、数百人を従えて品川宿に着陣した様子を伝えています。特に、隊列の出で立ち、装具、大原重実の風貌、本陣の様子などが、細かに記されています。今なら、写真を載せるところですが、当時は、こうした文章によって、人々に生々しい情報を伝えたのですね。

なお、この記事は、現在の新聞に近い記述の仕方で書かれています。旧幕府、新政府のどちらか一方に強く肩入れした表現はみられません。『太政官日誌』が、新政府や朝廷の意向を伝え、さらに政府側に立った戦況報告を載せていたのとは対照的です。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末の仇花『内外新報』1

2023年05月22日 | 高札

今回の品は、『太政官日誌第六』が出た慶應四年三月の翌月、慶応四年四月に創刊された『内外新報』です。これは、戊辰戦争のさなか、佐幕派の橋本貫一らの海運会社が、薩長勢力に対して言論で一矢むくいたいとしてはじめた新聞です。粗末な和紙に木版刷り、3,4日毎に小冊子形式で出されました。

今回の品は、『内外新報』の四月分、1号~18号です。

一か月分の内外新報が糸で綴られ、簡易製本されています。「海運会社執事」となっていますが、「海運会社」の実態はよくわかりません。幕府側の組織であることは確かです。

ページを開くと・・・

りゃりゃ、第ニ号(四月十三日)から始まる?

内側に、「内外新報第一号」(四月十日)が別に入っていました。

紙縒りで綴じてあります。破損が酷い(^^;

なぜ、創刊号だけ別なのかわかりません。レイアウトは一緒です。しかし、紙の大きさが創刊号の方が少し大きい。何らかの事情があったのでしょう。

破れ、虫食いは仕方がないですが、印刷の不鮮明さが目立ちます。

『太政官日誌』と較べると、資金力の差が歴然です。

   『太政官日誌』    『内外日報』  

『内外新報』は、慶應四年六月一日第六十号をもって発刊禁止、廃刊となりました。3カ月足らずの寿命でした。

『内外新報』の内容に関しては、次回ブログで。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする