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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

人件費は悪か、職人技の否定の行き着く先

2023年03月08日 22時49分25秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 西の空に光る金星と木星のランデブーもだいぶ離れてきた。最も近づいたときは満月の直径よりも近づいたかのように思えたが、今では写真のように満月で数個分もの距離に見える。
 しかし明るい星が二つ、とても目立つ。古の人もこのように明るい星が近づいて、そしてまた離れていく様子を異様な光景として見たのではないだろうか。
 あるいは既に惑星の動きは知っていてそれほど異様に思わないような情報がもたらされていたかもしれない。いろいろと勝手な想像を逞しくしてくれる星の動きである。

 さて、雑駁な感想をひとつ。

 世間での大きな話題をさらっている回転ずし店などでの不法行為をどのように捉えたらいいのだろうか。私はことの発端が、無人販売の餃子販売から始まっているように思う。そして回転ずしに飛び火し、その他の外食産業、特に人手を省いた店で行われていることに私は着目してみた。
 むろん、不法行為や迷惑行為、そして不衛生な行為をして、さらにそれを得意げに拡散する行為を私は擁護はしない。

 私が一番気になったのは、餃子の無人販売での対応である。盗んだ人が悪い、あるいは警察に対応を求める、という処置は果たしてすべて正しいのだろうか。
 確かに盗んだ犯人を捕らえるのは警察の仕事であろう。しかし「人件費を浮かす」ために無防備な「無人販売」をしていて、「監視カメラなどの設備に費用をかけざるを得なかった」という文句は果たして妥当なのだろうか。人件費を浮かして、盗まれたら公費で犯人探しをして、賠償請求するという姿勢はあまりに安易である。それ以前に人を雇い対面販売を行うことをどうして考えないのだろう。

 対面販売でもちゃんと商売として成り立たせている人々のほうが多数である。人よりも余計な利益を得るために「公」をあてにして利益を上げるという発想がそもそもまちがっているのではないか、というのが私が抱いた疑念である。

 回転ずしもしかりである。確かに創業者の「安価な寿司を提供してきた」という自負はあろう。またそれを享受してきた人々も多数いる。だがそれは対面販売という人件費を押さえるという方法、恰も人件費に狙いを定めた経営理念である。人件費が経営を圧迫するという思想は果たして本当の経営理念なのだろうか。
 さらに人件費を節約するために多くの機械を導入し、中の職人も機械化で削減し、機械化できない作業はお茶なども客にやらせるという思想が、今回の事件の背景にあるのではないだろうか。そういう状況下で今回の不法行為・迷惑行為は行われた。

 「警察の捜査を待つ」のではなく、当然投資すべきことを「客を悪意ある者」とみなすことを前提とする監視カメラや警備員の増員、皿への蓋の設置などで対応している。これなど愚の骨頂にしか思えない。
 すべてを対面販売にできないならば、中の職人の人手を増やして、客と職人の割合を少しでも代えれば改善できることを彼らはしようとしない。
 たぶんそれは人件費の嵩む「職人芸」という専門性を忌避し、職人ではなく職員に、端的に言えば「アルバイト」に代えてしまうという思想からきている発想である。それを労働の疎外というのである。職人芸を忌避し、すべての作業を素人でもできることに分解、解体して、非熟練者の単純作業に解消してしまう。人件費を押さえ、労働人口の流動化と非定着化を図った結果が今回の「事件」の背景にあると私は思う。

 もっと飛躍していえば、現場の第一線で働く人間から熟練の職人芸を無くすだけでなく、無人販売も大型化した回転ずしも、客の反応を見ることを想定していない。客との対話の中から餃子の質の向上も、寿司の出来具合の反応を見極めることも使用としていない。結局商品である食品加工品の味も、提供する側の思い=独りよがりだけで成立する。さらに突き詰めれば、漁業者や原材料の生産者の顔も見なくなり、材料を運搬する人も、買い付けや納品に奔走する人の顔も喪失してしまう。すべてを繋ぐのは、「安さ」という価値だけになるのが目に見えている。

 事件は人件費抑制という安直な経営理念の必然的な行き着き先ではないのか。

★少々粗雑で乱暴な展開の文章になっていることは、コメントにも指摘がある通りである。特に無人販売一般と大手の回転ずしとを同一視したように俎上に挙げたことは反省。さらにいろいろと考えて補足なり修正なりしていきたいと思う。

 

 


本日の夕食

2023年03月08日 20時13分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 サクラの季節が近いとはいえ、異常ともいえる暖かい日であった。



 本日の昼食は白がゆを鮭の中骨の缶詰の中身を半分ほど入れて炊いてもらった。夕食にはオートミール。ただしおかずは本日の夕方のイベントの会食で食べた消化の良いものを選んで食べたので、軽く。梅干しとマグロの刺身2切れ。そして思い切って鶏肉を少しばかり。3日前以来初めての「お肉」を口にしたことになる。海苔も2枚食べた。これで明日、何ともなければ昼からは普通食に戻すつもりである。

 お酒も今日までは遠慮することにした。明日はアルコール度の低い、炭酸の入っていないお酒から始めたい。マッコリがいいかもしれない。


「老子」のアジテーション

2023年03月08日 10時39分20秒 | 読書

 ふと「老子」を手に取って、開いてみると第53章が目に入った。

使(も)し我れ介然として知有らば、大道を行きて、唯だ施(し)を是れ畏(おそ)る。大道は甚だ夷(い)なるも、而れども民は径(けい)を好む。朝は甚だ除(よご)れ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきにに、文綵(ぶんさぃ)を服し、利剣を帯び、飲食に厭(あ)き、財貨余り有り。是れを盗夸(とうか)と謂う。道に非(あら)ざる哉。

もし、わたしにしっかりした知恵があるならば、大きな道をあるき、わき道に入り込むことだけを怖れる。大きな道は、まことに平坦なのに、人民は近道を行きたがる。朝廷では汚職邪悪がまかり通り、田畑は荒れほうだい、米倉はすっかり空っぽなのに、きらびやかな衣服を身にまとい、立派な剣を腰に差し、飽きるほど飲み食いし、財産はあり余るほど。これを盗人の親玉という。道ではないのだ。」(岩波文庫「老子」、蜂屋邦夫訳)

私に一介の士としての知があるとしたら、大道を行って、ただ曲がった道だけを怖れる。大道はこの上なく平坦なのに、大衆は小道を行きたがる。朝廷は掃除は行き届いているが、田は荒れ放題で、倉庫はまるで空っぽである。それにも拘わらず、文様と彩りのきれいな衣服を着飾って見事な剣を腰に帯びた輩は、飲食に飽き、財貨は有り余っている。こういう奴らを盗人(ぬすっと)の親玉というのだ。非道ひのものだ。」(ちくま新書「老子」、保立道久訳)

 なかなか激烈なアジテーション風の言葉である。保立氏の指摘のように「士太夫」としての「エリート意識と民衆不信」が垣間見えるところは鼻につく。
 しかし今の日本の支配層(世襲の政治家が当たり前の世界と腐敗がはびこる官僚トップ層)を見るに付け、こういう激烈なアジテーションにも気持ちが引き寄せられてしまうことがある。

 社会の分断の深化、二者択一の思考、知恵無きエリート意識のひけらかし・・・こんな状況ばかりの閉塞感の中で、先が見えないまま、私はこの社会とどう切り結ぶか地道に模索し、もがき続けるだけである。